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十六夜日記残月抄

八橋 与清按に、八橋に二所あり、そは伊物、古今、古今六帖に見えたる八橋と、更級日記、旧本今昔物語より後のものにみえしは、所異也、更級、今昔より後にいふは、参河国図お考に、碧海郡池鯉鮒宿の東なる里村のつヾきに有、〈◯中略〉東海道名所記四に、今村、西田雲雲、海道より北のかた一里ばかりに八橋の旧跡あり雲々、東遊行囊抄六に、追分、池鯉鮒野にあり、是より左八橋の道也、八橋は自追分到于此、十町許雲々、などいへるにて知べし、さて伊勢古今のは、今の矢矧川の川上などにやあらん、そは伊勢物語に、〈◯中略〉やつはしといひけるは、水ゆくかはのくもでなれば、橋やおつわたせるによりてなんやつはしといひけるとあり、古今羈旅の詞書は、これおとりて略し書る也、伊勢物語の真名本に、水ゆく川のくもでお、水堰河之蜘手と書て、みづいてかはのくもでとよめり、蜘手は借字にて隈処(くまど)の義也、伊勢の雲津も川の隈処より出し名也、又隈津(くまづ)の義としてもきこゆ、さて川曲(かはぐま)の処に埭かれし上つかたは、水堪てひろびろと瀬もはやからず、橋などわたすにもたよりよきことわり也、その広き川中へ杭打かまへて、つぎ〳〵橋お架わたし、此方彼方に通はせたれば、八橋とはいへるなるべし、和名抄八に、伯耆国八橋郡八橋、也八之、とあるも同義とみゆ、〈◯中略〉かヽれば伊勢、古今にいへる八橋は、今の所のごと、わづかなるせヾらき水にはあるまじくぞおもはるヽ、更級日記に、八橋は名のみして橋のかたもなく、何の見所もなしとあるは、今の所のさまに聞ゆれば、更級より後の書なるは、今の八橋の所とは定むる也、さて伊物の朱雀院塗籠御本に、水のくもでにながれわかれて、木やつわたせるによりてなん八橋とはいへると有は、やヽ後に書かへて詞お改められしなるべし、旧本今昔物語廿四には、河の水出て蜘手也ければ、橋お八つ渡けるに依て、八橋とは雲ける也とあり、是もさる本によりて書出せしとみゆ、しかはあれど、水が蜘手のさまにながるべきことわりなければうけがたし、