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岩淵夜話別集

或時、岡崎の御城下矢矧橋の洪水にてながれければ、さつそく掛渡すべき旨、家康公被仰付、就夫各家老申上られけるは、兼々何れも存寄罷在候へども、かやうの時節お以て可申上と存じ差扣候、此橋の義は世間にまれなる大橋にて候得ば、火敷御物入にて御座候、其上当時戦国の儀にも候へば、御城下にかやうなる大河有之候は第一御要害にも候へば、傍以て今度流捨り候お幸に被遊、向後の義は船渡しに仰付られ可然と奉存候と一同に申上る、家康公仰られけるは、抑此矢矧の橋の事は、代々の記録にもしるし、其外舞にも平家にも語り伝て、日本の国中に誰しらぬものもなし、定めて異国へも聞へぬ事は有まじ、然るに物入多ければとて、今更橋お停止して船渡しに申付、往還旅人になんぎおかけんことは、国持の本意にあらず、たとひ何ほどの入用たりともすこしも不苦、早々掛渡し候やうに被申付べし、さて又要害に頼むと雲ふは、人にもより、時にも可寄もの也、当時家康が心入のほどは、一向左様の趣にあらず、そのだんは何れもの心入にあるべきものなり、然れば要害お求むるには不及義なり、唯片時もはやく橋お掛渡し、往還の煩なきやうに可被申付旨被仰出けるなり、