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梅松論

むかしより東士西に向ふ事、寿永三年には範頼、義経、承久には泰時、時房、今年建武二年には御所高氏、直義、第三箇度なり、御入洛何のうたがひかあらんとぞ勇悦あいける、去ながら海道は山河の間に足がヽりの難所に付、合戦治定有べしと覚えし処に、天竜川の橋おつよくかけて渡守お以て警固す、此河は流はやく水ふかき間、ゆヽしき大事なるべきに、橋おば誰か沙汰して渡したりけるぞと尋ねられしかば、渡守どもが雲、此間の乱に我等は山林〈◯林一本作奥〉に隠れ忍びて、舟どもおば所々に置て候ひしに、新田殿当所に御著有て河には瀬なし、敗軍なれども大勢なり、馬にて渡すべきにあらず、また舟お以てわたさばおそくして、味方お一人なりとも失はん事不便なるべし、いそぎうき橋おかくべし、難澀せしめば女等お誅すべしと、御成敗候ひしほどに、三日の間に橋おかけ出して候なり、新田殿は御勢お夜昼五日渡させ給ひて、一人も残らずと見えし時、新田殿御渡り候しなり、其後軍兵此橋お頓て切落すべきよし下知せし時、義貞橋の中より立帰て、大に御腹お立られて、我等お近く召れて仰含られ候しは、敗軍の我等だにも掛て渡る橋、いかに切おとしたりとも、勝に乗たる東士、橋お掛ん事、時日おめぐらすべからず、凡敵の大勢に相向ふ時に、御方小勢にて川お後にあてヽ戦ふ時にこそ、退くまじき謀に舟おやき、橋おきるこそ武略の一の手だてなれ、義貞が身として、敵とてもかけて渡るべき橋お切落して、急におそはれしおあはてふためきけるといはれん事、末代に至まで口おしかるべしとて、橋お警固仕れとて、静に御渡り候しなり、此故に御勢お待奉て、橋お守候なりと申ければ、是お聞人皆々涙お流し、弓矢の家に生れては、誰もかくぞ有べけれ、疑なき名将にて御座ありけるとて、義貞お感じ申さぬ人ぞなかりける、