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太平記
十四
官軍引退箱根事 十二月〈◯建武二年〉十四日の暮程に、天竜河の東の宿に著給にけり、時節河上に雨降て、河の水岸お浸せり、長途に疲れたる人馬なれば、渡す事協まじとて、俄に在家おこぼちて浮橋おぞ渡されける、此時もし将軍〈◯足利尊氏〉の大勢後より追懸てばし寄たりしかば、京勢は一人もなく亡ぶべかりしお、吉良、上杉の人々、長僉議に三四日逗留有ければ、川の浮橋程なく渡しすまして、数万騎の軍勢残る所なく、一日が中に渡てけり、諸卒お皆渡しはてヽ後、舟田入道と大将義貞朝臣と二人、橋お渡り給ひけるに、如何なる野心の者かしたりけん、浮橋お一間、はりづなお切てぞ捨たりける、舎人馬お引て渡りけるが、馬と共に倒に落入て浮ぬ沈ぬ流けるお、舟田入道誰かある、あの御馬引上げよと申ければ、後に渡ける、栗生左衛門鎧著ながら川中へ飛つかり、二町計游付て、馬と舎人とお左右の手に差揚て、肩お超ける水の底お閑に歩て、向の岸へぞ著たりける、此馬の落入ける時、橋二間計落て渡るべき様もなかりけるお、舟田入道と大将と二人手に手お取組で、ゆらりと飛渡り給ふ、其跡に候ける兵二十余人飛かねて、且し徘徊しけるお、伊賀国住人に名張八郎とて名誉の大力の有けるが、いで渡して取せんとて、鎧武者の上巻お取て中に提げ、二十人までこそ投越けれ、今二人残てけるお、左右の脇に軽々と挟て、一丈余り落たる橋おゆらりと飛て、向の橋桁お蹈けるに、蹈所少も動かず、誠に軽げに見へければ、諸軍勢遥に是お見て、あないかめし、何れも凡夫の態に非ず、大将と雲、手の者共と雲、何れお捨べし共覚ね共、時の運に引れて此軍さに打負給ひぬる、うたてさよと雲はぬ人こそなかりけれ、其後浮橋お切てつき流されたれば、敵縦ひ寄来る共、左右なく渡すべき様もなかりけるに、〈◯下略〉