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視聴草
五集六
埋木の記 このむもれ木は、この国に名高き角田川のはし柱なり、いでや此かはに橋有しことおたづぬるに、かまくらの右大将〈◯源頼朝〉の、平家の人々おおはれんとて、治承四年にうきはしわたせるおはじめにて、光俊朝臣の康元二年のうたに、身おうきはしのとよまれしは、八十年ばかりのちのことなれば、むかしのまヽにてありしにはあらで、おのづからそのころわたせしこともや有けん、ほどへて文明十年、太田道灌入道の千葉おせめしとき、長橋おかまふ、その所お橋場と名づくといふこと、物にみえたれど、九とせばかりのちに、道興准后の通らせ給ひし時も、天文の中ごろ氏康朝臣の道の記にも、橋有とも見えざれば、はやく絶しなるべし、又ところの人のいひつたへしは、三百とせばかりさきに、農民のわたくしに土ばしかけて、往来せしことありけり、又享保の頃、舟ばしまうけられしこともありといへば、いにしへよりちかきころにいたるまで、いくたびかはしらたてしこと有しならん、さればさだめていつの頃ぞといはんよしなければ、むもれ木といひて有なれど、橋柱のありしはいちじるけれ、この木とり得しところは、水神のもりと、いまのわたし場とのあはひにて、水の深さ八尋あまり有しお、つなおからみて土舟二艘おうかべ、しやちといふものにてまきつヽぬきとりしといふ、ころは文化十とせあまり一とせ、ふみ月ついたちの日にてぞ有ける、 源弘賢