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松屋棟梁集

隅田河埋木文台記 むさしの国と、下総のくにとの中にある河お、すみだ河といふ、〈◯中略〉この河の橋場のわたりに、ふるき柱ののこれるが、水底によもと五本にたてりとなん、そのふる木もて文台つくれるお、輪池屋代翁ひめもたれたり、これやこのながらのはし柱の文台のあとおしたはれしわざなるべし〈◯註略〉そも〳〵すみだ川の橋は、源平盛衰記、〈◯中略〉一遍ひじりの絵〈(中略)画に長橋一条あり、板橋にて左右の欄干あり、こは正安元年八月、聖戒行人の撰詞にて、画は法眼円伊の筆、十二巻也、また詞書のみお刊本とせしも三巻あり、〉などにうき橋、またはなべてのさまなる板橋おもわたせるよしあり、〈◯中略〉里人のつたへ言にも、今より三百年ばかりむかしに、所の長者がつちはしおつくり、〈◯註略〉享保年間おほやけより船橋おまうけられしこともありといへり、よしやこの文台にせしは、いづれの時の橋ばしらの名ごりにもあれ、それはそれとして、たヾにうもれ木とのみいひてんとて、もてはやさるヽ翁のみやびごヽろのかうばしきこそ、かへす〴〵もゆかしけれ、文化十三年といふとしの文月のついたちの日、あづまのみやこの神田川辺なる松かげの家いにて、高田与清筆おそむ、