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名家略伝

吉田雨岡 名は桃樹、字は甲夫、通称忠蔵、鰲岐と号せり、江戸の人、その人となり明敏、吏務に精練して其功勲甚多し、明和の末年、浅草花川戸のわたりに橋お造るの議あり、議者いへらく、水底に巨石ありて橋柱お植るによしなし、かヽれば空しく費の多からんのみといひて遂に果さヾりき、かくて安永のはじめ、雨岡、善潜の者に水底お捜らしめて、柱お植つるの法お得たり、建議して橋お造れり、往来の農商人ごとに二銭お税とす(○○○○○○)されば後来修造の用費猶巨といへども、いさヽかも公孥おつひやすことなし、公私その便利お得ること少からず、その功大なりといふべし、名づけて大川橋といへり、天明丙午の歳、関東洪水の時、河水怒脹、大川橋やヽ壊損するに至らんとす、事急なり、雨岡以聞おへず、意お決して橋の中間、水勢の最衝突する所の数丈お断しめければ、よりて橋の壊損せざることお得たり、人みなその敏捷機警お嘆美せずといふことなし、