[p.0297]
甲子夜話
二十九
今年〈癸未◯文政六年、中略〉六月二十一日〈◯中略〉両国橋お渡るに、川水赤く、橋下に脹落るさま急流眼お射る如し、〈◯中略〉是につき先年のこと憶ひ出したれば書つく、予〈◯松浦清〉が幼年の頃は大川橋はなし、因て江東に往には、上は竹町の渡り、下は御厩の渡舟お用ひたり、然に予十歳ばかりの頃か、橋出来たり、其初は至て軽く架したりしが、修改する度毎に丈夫になりぬ、初架の橋なりしや、一年大水出たるときに、江東に寓居して在しかば、川辺に出て見たるが、川水大に溢れて、川上よりさかまき下る、その中には種々のもの流れ来り、溺死の人などもありき、やヽする中、遥に黒く横たわりたるもの見ゆ、人々あれは何なるやと雲いたるに、間もなく近よるお見れば、四五間もあらん筏の如きものに、竿など結付けたるものと見えしに、夫お見かけ助け船多く出て、牽寄せんと為せしが、川水勢剛くして手に及ばず、忽ち大川橋の橋杭に流れかヽると、翻つて楯お竪たる如くなりたり、水その物に碍へられ、大滝の如くなると、人みな壮観かなと雲つヽ見いたる中に、めり〳〵と雲音したるが、やがて橋は中ほどより破れ傾きたり、この筏の如きものは、出水にて千住大橋はや落て流れ来るが、この橋杭の間お通りがたく、杭にせかれて水お遮り停め、水勢ます〳〵強くなりて、かくなりしなり、過去のこと今知人も希なれば、其ありさまお書貽すにぞ、