[p.0300][p.0301]
江都管鑰秘鑑

両国橋新大橋町奉行支配に成事〈◯中略〉 夫子産鄭国の政おとり、其乗輿お以て人お漬渭に渡す、人々お得て尽難き事お難ず、去ば巨川に橋して民人渡る事お得る、正に是仁政之宥なり、我大都会の内にも橋水長なるものおあげて、その由来お尋るに、記すべき事多くあり、先両国お始、新大橋の事は、享保之頃、御老中大久保佐渡守殿、町奉行坪内能登守お呼給ひ、仰渡れけるが、程なく向後本所奉行支配たるべきよし也ける、程なく亥年〈◯享保四年〉に至て本所奉行の持お止られ、町奉行の持となりたるは、亥の四月四日の事なりとぞ、此月御用番井上河内守殿なり、月番之町奉行大岡越前守お召て、中の間にて左之通り御書付御渡被成候とぞ、 両国橋 新大橋 向後町奉行支配に成候条、可得其意候、 亥四月四日 右御書付、越前守拝見有時、猶亦河内守殿仰られけるは、此度本所奉行之役さし止られ候に付、本所処々橋々町方へ附候分は各支配たるべし、両国橋、新大橋之義は、目立候橋故、御書付にて申達候、其余は小橋の事故、書付には乗られず候得ども、同様に心得られ候へと有ければ、越前守かしこまつて、既に本所は一円私ども支配仕べきの段被仰渡候上は、橋の義畏り候所也と、御請申されけるとぞ、