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翁草

江府新大橋之事 桂昌院殿〈◯将軍徳川綱吉母本庄氏〉は、元卑賤より出給ふといへども、其操正敷御善行勝て計へがたし、〈◯中略〉将軍家〈◯綱吉〉御厄年の事とかや、諸寺諸山の御祈りなどいと悃成けるに、右に仍桂昌公より御願の一筋有、御聞届有て給ひてんやとの御事なりしに、素より綱吉公には御至孝の御志なれば、如何様の御願成とも仰玉へ、協へ参らせ侍らんとの御答也、時に桂昌公の宣く、余の願には侍らず、江戸御繁栄に就て、下つさの本所迄も、年に増月お重ねて賑ひはびこり、士農工商援に住し、江戸本所の通路今に於ては差別なく、偏に江戸と一所の如し、しかるに両国橋一つにては、常の通行だに廻り道多くして、諸用差閊る由也、増て非常の折柄には、世人の難義、事に寄ては生死の境にも成なん、今一つ中央に大橋興立あらば、大ひ成る世の扶け、是もろ〳〵の御祈にも増りて能き善根ならめ、庶幾は尼が願の一筋聞召開かせ給へとかきくどき仰ければ、綱吉公猶感伏し給ひ、此御願は国土の為、広大の御功徳、後世不易の御善根なり、いかでいなみ申さんやと、即時に御催有て、其筋の役人へ仰付られ、忽橋成就す、即今の新大橋是也、実に此功徳万世に徹りて、桂昌公の寛徳お仰ぎ崇みける、