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太平記
十五
三井寺合戦并当寺撞鐘事附俵藤太事 承平の比、俵藤太秀郷と雲者有けり、或時此秀郷隻一人勢多の橋お渡けるに、長二十丈許なる大蛇、橋の上に横て伏たり、両の眼は耀て天に二つの日お掛たるが如し、双べる角尖にして冬枯の森の梢に不異、鉄の牙上下に生ちがふて、紅の舌炎お吐かと怪まる、若尋常の人是お見ば、目もくれ魂消て、則地にも倒つべし、されども秀郷天下第一の大剛の者也ければ、更に一念も不動ぜして、彼大蛇の背の上お荒かに踏て、閑に上おぞ越たりける、然れ共大蛇も敢て不驚、秀郷も後ろお不顧して遥に行隔たりける処に、怪げなる小男一人、忽然として秀郷が前に来て雲けるは、我此橋の下に住事、已に二千余年也、貴賤往来の人お量り見るに、今御辺程に剛なる人未見、我に年来地お争ふ敵有て、動ば彼が為に被悩、可然ば御辺我敵お討てたび候へと、懇にこそ語ひけれ、〈◯下略〉