[p.0351][p.0352]
渡は、わたりと雲ひ、又わたしと雲ふ、蓋し自他お以て其称お異にするものにして、池沢河海等、凡て水お渡るべき処お雲ふなり、而して徒歩して渉るものお歩渡(かちわたり)と雲ひ、舟行するものお船渡(ふなわたし)と雲ひ、両岸に宣せる綱お繰り、櫓櫂お用いずして船お行るものお綱渡(つなわたし)と雲ふ、又断岸絶壁に在りては、綱お宣し籠お釣り、身お其中に投じ、掣きて渡るものあり、之お籠渡(かごのわたし)と雲ひ、又綱橋とも雲ふ、〈綱橋の事は、橋篇に詳なり、〉 上古津済の事、得て詳にすべからず、神武天皇東征の時、御船摂津国浪速渡お経て、河内の白肩津に泊り給ひしこと古事記に見え、景行天皇の朝、同国高瀬に行幸して、渡子に渡賃お賜ひしこと播磨風土記に見ゆ、是れ蓋し渡の史籍に見えたる始にして、渡子渡賃等お記せるも、是より前には未だ所見なし、孝徳天皇大化改新に至り、詔して要路津済渡子の調賦お罷め、田地お給与し給ふ、蓋し従前は、津済お設け、渡子お置くが為に調賦お収めしが、是に至り官より田地お給して費用に充て、別に調賦お課せざりしならん文武天皇大宝の制、凡そ諸国の道橋津済は、民部省の管する所にして、国郡官司等おして各々之お分轄せしめ、其要路にして徒渉に堪へざる処あれば、船お備へ渡子お置きて之が雑徭お免ず、而して其人お済し物お運ぶの次序は、其津に至れる先後に従ふ、嵯峨淳和二天皇の頃、勅して度子の用度は正税お割きて之に充てしめ、往還の人の渡銭お要せざることヽ為しヽは、大化の制お摸せしものか、次で仁明天皇の朝、東海東山両道の諸川、崖岸広遠にして、浮橋お架すること能はざるものは、渡船お増置し、又布施屋お河畔に作りて休憩停留に供せしむ、爾来文徳天皇以後数朝の間、常に叡慮お此に用いて、或は度子お配置し、或は渡船お増設せしめ給ひしこと、累見錯出して載するに勝へざるなり、 将門威お四にし権お弄するに至りては、諸国の守護地頭等、私に津料、河手と称して船賃お強取し、旅人の障害お為すもの多し、順徳天皇建保三年以降、幕府屡々令お発して之お厳禁し、其用途は別に料田お置きて之に充てしむ、然れども随て令すれば随て弛み、足利幕府の世お終ふるまで、遂に其功お奏すること能はず、織田豊臣二氏相継ぎて興るに及びては、諸国津済の制、較々見るべきもの無きにあらず、之お前にしては大内家壁書に載する所の鯖川渡、赤間関渡等の船場定の如き、之お後にしては朝野旧聞褒稿、及ひ舟橋方古書写に記する所の遠江天竜川、越中神通川等の渡場定の如き、亦以て其一端お窺ふに足るべし、徳川氏府お江戸に開き、天下の諸侯おして参勤交代せしむる頃に至りては、諸道の交通最も頻繁にして、復た旧貫に因るべきに非ず、是に於てか特に意お道路舟梁に用い、凡そ管内の渡場には、高札お建てヽ其制お掲示し、諸国おして之に遵行せしめ、且つ要路津済には、各々関お設け吏お置きて行旅お検察せしむ、而して其渡銭は一定の額ありて、渡子の増収お禁じ、優するに扶持米お以てしたり、若し渡子にして誤りて渡船お沈没せしめ、溺死せしむるときは、多くは之お遠島に処し、時に或は死罪に行はしむることありき、