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太平記
三十三
新田左兵佐義興自害事 十月〈◯延文三年〉十日の暁に、兵衛佐殿は、忍て先鎌倉へとぞ被急ける、江戸竹沢は、兼て支度したる事なれば、矢口の渡りの船の底お二所えり貫て、のみお差し、渡の向には、宵より江戸遠江守、同下野守、混(ひた)物の具にて三百余騎、木の陰、岩の下に隠て、余る所あらば討止めんと用意したり、跡には竹沢右京亮、究竟の射手百五十人勝て、取て帰されば、遠矢に射殺さんと巧たり、大勢にて御通り候はば、人の見猶め奉る事もこそ候へとて、兵衛佐の郎従共おば、兼て皆抜々に鎌倉へ遣したり、世良田右馬助、井弾正忠、大島周防守、土肥三郎左衛門、市河五郎、由良兵庫助、同新左衛門尉、南瀬口六郎、僅に十三人お打連て、更に他人おば不雑、のみお差たる船にこみ乗て、矢口渡に押出す、是お三途の大河とは思寄ぬぞ哀なる、〈◯中略〉此矢口の渡と申は、面四町に余りて、浪嶮く底深し、渡し守り已に櫓お押て、河の半ばお渡る時、取はづしたる由にて、櫓かいお河に落し入れ、二つののみお同時に抜て、二人の水手、同じ様に河にがは〳〵と飛入て、うづに入てぞ逃去ける、是お見て、向の岸より、兵四五百騎懸出て、時おどつと作れば、跡より時お合せて、愚なる人々哉、忖(たばか)るとは知ぬか、あれお見よと欺て、箙お扣てぞ笑ける、去程に水船に涌入て、腰中計に成ける時、井弾正、兵衛佐殿お抱奉て中に差揚たれば、佐殿安からぬ者哉、日本一の不道人共に忖(たばか)られつる事よ、七生まで女等が為に恨お可報者おと、大に忿て、腰の刀お抜て、左の脇より右のあばら骨まで掻回々々、二刀まで切給ふ、井弾正腸お引切て、河中へがはと投入れ、己が喉笛二所さし切て、自らかうづかお攫み、己が首お後ろへ折り付る音、二町計ぞ聞えける、世良田右馬助と、大島周防守とは、二人刀お柄口まで突違て、引組て河へ飛入る、由良兵庫助、同新左衛門は、舟の艫舳に立あがり、刀お逆手に取直して、互に己が首お掻落す、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎三人は、各袴の腰引ちぎりて裸に成、太刀お口にくはへ、河中へ飛入けるが、水の底お潜て向の岸へかけあがり、敵三百騎の中へ走入り、半時計切合けるが、敵五人打取り、十三人に手負せて、同枕に討れにけり、