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松屋叢話
万葉三の巻、弁基が歌に、亦打山(まつちやま)、暮越行而(ゆふこえゆきて)、廬前乃(いほざきの)、角太河原爾(すみだがはらに)、独可毛将宿(ひとりかもねむ)、と見えたる角太お、都奴太(つぬだ)とよみて、いにしへ角の字おすみとよめりし例なし、すみには必隅の字お書たりといへる本居宣長が説おたすけ、近江の僧海量が、今も紀伊国に廬前庄、角田庄といふがあるよしものがたれるおも、後のあやまり也とて、荒木田久老が万葉槻の落葉にいひけちぬるはいかにぞや、まづ大殿祭の祝詞に、四方四角(よもよすみ)と見え、遊仙窟にも、四角およすみとよみたるがうへに、元亨釈書十五の巻、越知山泰澄が伝に、釈泰澄、姓三神氏、越之前州、麻生津人、父安角(やすずみ)雲々、大宝二年、文武帝勅伴安、以澄為鎮護国家法師、養老之法効、擢為供奉、賜号神融禅師、授以禅師位、天平之効、授大和尚位、改号泰証、澄奏曰、願以証作澄、蓋不忘父諱也、自註に澄角和訓隣(ちかし)ともあれば、これかれおもひめぐらすに、なほすみだとよむべき証ぞさだかなる、花営三代記、康暦二年八月廿三日の条に、紀州凶徒、高野政所、並隅田一族等、没落之由、翌月九月二日注進到来とあるも、紀伊国の姓氏なれば、角田とも、隅田とも、字おかよはして書りと見ゆ、橘千蔭が万葉略解に、その議論はなくして、たヾにすみだとよみたるは、古訓によれりしのみにて、宣長がひがことおしれるにはあらず、