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武蔵国隅田川考
更級日記雲、むさしとさがみとの中にいて、あすだ川といふ、 按に、あすだ川は、すなはちすだ川なるべし、す田川、隅田川おなじ、里人のかくなまつて伝へしなるべし、〈◯中略〉此日記は、常陸介菅原孝標が女のしるせしなり、孝標が父は資忠といひて、天延九年五月卒しぬれば、かの女も大やうその比の人なることしるべし、物茂卿雲、武蔵相模の境なるすみだ川といふ事は、女のかヽれたるものなれば、国の名お書ちがへしなるべしと、山岡明阿雲、異本に武蔵と下総とのあひだにこの条あり、さらば今の世のいひ伝へによくかなへども、或は後人のことさらに入ちがへたることにや、多本皆武蔵相模のさかいとあり、もしはこの作者、まだ幼稚の童女の〈按に、十三歳のときなり、〉書きたるものなれば、きヽたがへしにもあるべし、いづれ定めがたくなんと、此二説のごとき、いまだまさしきお得たりともおもはれず、茂卿の説のごとく、たヾ国の名かきたがへたりといはんには、前後の文お見るに、武蔵野お分てこの隅田川に来れり、是より相模の国にいたり、もろこしの原など見しことおかけり、諸越の原は相模の国なり、国の名あやまりたらんには、下総国とかくべきか、それよりもろこしが原にいたらんは、いかにもほど遠かりぬべし、よりて異本に、武蔵下総の国とあるも、得たりともおもはれず、いかさまそのころあなひせしものヽ、多磨川おさして、是なん隅田川なりと、みだりにおしへしならん、すべて此記お見るに、道すがらの名だヽる所は、こく〴〵く沙汰あれど、多磨川のことにおよばず、是らにてもおもひ合するに、多磨川と隅田川のあやまりより、武蔵と相模の中とは、かきしなるべし、さもあらんには、諸越が原へ出しもむべなり、ことに女のことなれば、おしへしままおしるせしなるべし、猶下の太井川にも弁ぜり、