[p.0464]
武蔵国隅田川考
按に此太井お、東鑑に大井とかきて、おほいと点お下せしは誤ならん、ふといとよむべし、更級日記にも、しもつふさの国と、武蔵の国の境ひなる、ふとい川と見えたり、是も亦川の名おかきたがへたりと見ゆ、ふるくより武蔵下総の境なる川は、隅田川なること勿論なり、太井川は全く下総の国と見ゆ、さればこヽにいふ太井川は、隅田川の誤りなるべし、是によりておもふに、かの孝標が女の、みちのくよりこなたに来る路すがら、案内の者のいふにまかせて、隅田川お太井川とおもひ、多磨川お隅田川としるせしなるべし、友人凸凹居〈◯三島政孝〉の説に、更級日記に載る所おおもふに、太井川はもとより、たがふにあらずして、この比その隅田川は、海のごとく川はヾも広かりしかば、品川の入海なりと思ひうちすぎ、隅田川の沙汰におよばざりしならんと、さもありしにや、義経にも、ふとい隅田(すんだ)だうち渡りしよし見えたり、古へ隅田川の東に、太井川といふありて、世に名高き川ときこゆれど、今はその名おしる人もまれなり、葛飾名所記に、利根川の末お葛飾の郡にて、かつしか川といふ、又太井川とも文巻川ともいへり、真間の岸の辺おからめき川ともいふ、則今の市川なり、俗に坂東太郎といふ是なりと、是によれば、隅田川とは大にへだヽりて、全く下総の国のうちなり、