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源平盛衰記
四十一
盛綱渡藤戸児島合戦附海佐介渡海事 同〈◯元暦元年九月〉十八日に、平家は讃岐屋島に作有、山陽道お打靡して、左馬頭行盛お大将軍として、飛騨守景家以下の侍お相具して、二千余艘にて備前国児島に著、三川守範頼も、室の泊に有けるが、舟より上り、同国西河尻、藤戸の渡に押寄て陣取、源平海お隔て磬へたり、海上四五町には過ざりけり、同廿五日に、平家海お隔て、扇おあげて源氏お招く、源氏是お見て海お渡せと雲にこそ、船なくして協べきならねば、是お以扇招合ふ、源平遥に見渡て、其日も徒に晩にけり、援に佐々木三郎盛綱、夜に入て案じけるは、渡すべき便のあればこそ、平家も招らめ、遠さは遠し、淵瀬はしらず、如何はせんと思けるが、其辺お走廻て、浦人お一人語ひ寄て、白鞘巻お取せて、や殿、向の島へ渡す瀬は無か教給へ、悦は猶も申さんと雲へば、浦人答て雲、瀬は二つ候、月頭には東が瀬になり候、是おば大根の渡と申、月尻には西が瀬に成候、是おば藤戸の渡と申、当時は西こそ瀬にて候へ、東西の瀬の間は二町計、其瀬の広は二段は侍らん、其内一所は深く候と雲ければ、佐々木重て、浅さ深さおば争か知るべきと問へば、浦人浅き所は浪の音高く侍ると申す、さらば和殿お深く憑む也、盛綱お具して、瀬踏して見せ給へと懇に語ひければ、彼男裸になり先に立て、佐々木お具して渡りけり、膝に立所もあり、腰に立所もあり、脇に立所もあり、深所と覚ゆるは、鬢鬚おぬらす、誠に中二段計ぞ深かりける、向の島へは浅く候也と申て、夫より返る、佐々木陸に上て申けるは、や殿暗さは暗し、海の中にてはあり、明日先陣お懸ばやと思ふに、如何して隻今のとおりおば知べき然べくは和殿、人にあやめられぬ程に、澪注(みおしるし)お立て得させよとて、又直垂お一具たびたりければ、浦人斯る幸にあはずと悦て、小竹お切集て、水の面よりちと引入て立て帰て角と申、佐々木悦て、明るお遅と待、平家是おば争か可知なれば、二十六日の辰刻に、平家の陣より又扇お挙てぞ招たる、佐佐木三郎盛綱は、黄生衣の直垂に、緋威の冑、白星の甲、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍置てぞ乗たりける、家子に和比八郎、小林三郎、郎等に黒田源太お始として、十五騎轡おならべて、海に颯と打入てぞ渡ける、三川守、馬にて海お渡す事やはある、佐々木制せよと宣ひければ、土肥、梶原、千葉、畠山承り、継て誤し給な、返せ返せと声々に制しけれ共、兼て瀬踏して、澪注お立たれば、耳にも聞入ず渡しけり、馬の鳥頭、草脇、胸帯尽(むながいつく)しに立所もあり、深所おば手綱おくれ游せて、浅くなれば、物具の水はしらかし、弓取直し、向ひの岸へさと上る、鐙踏張、弓杖にすがりて名乗けるは、今日海お渡し、敵にすヽむ大将軍おば誰とか見る、宇多天皇の王子、一品式部卿敦実親王より九代の孫、近江国住人、佐々木源三秀義が三男に、三郎盛綱也、平家の方に我と思はん者は、大将も侍も落合て、組や組やと喚て蒐入、散々に蒐る、源氏の兵是お見て、海は浅かりけり、佐々木討すな、渡せ者共とて、土肥、梶原、千葉、畠山、我先々々と打入々々、五千余騎向の岸へさと上る、