[p.0481][p.0482]
津は、つと雲ふ、船舶の来泊する処にして、別ちて之お言へば、港湾に在るものお船津と雲ひ、河に在るものお川津と雲ふ、 上古神武天皇東征の時、御船河内の草香津に泊し、次で熊野荒坂津に至り給ふ、事は載せて記紀二典に在り、是れ実に津の史籍に見えたる始なるべし、神功皇后三韓征服以降、彼我の交通漸く頻にして、沿海の諸津著名のものも亦鮮からず、仁徳天皇の朝に至り、初て摂津墨江津お定め給ふ、此津は難波津と並称せられて、御津若しくは大津と雲ふ、二津の名実に天下に冠たり、是時に当りて船舶の海外に往来するもの皆之に由らざるはなし、而して進めば必ず対馬に泊す、其一お称して津国と雲ひ、其一お呼びて津島と雲ふは、全く之に由ると雲ふ、 大宝の制、凡そ津橋道路は民部省の管する所にして、国郡官司おして各々之お分轄せしめ、行旅の妨障なからしむ、而して摂津国は船舶輻湊の地なるお以て、特に職おして過所お勘検せしむ、爾来過所の事史上に累見し、其制時に随ひて寛厳あり、尚ほ過所の事は、関篇に詳なれば参看すべし、 相門世々政権お握るに及びては、薩摩の坊津、筑前の博多津、伊勢の阿濃津最も要津たり、之お日本三津と称し、其名海外に聞ゆ、鎌倉室町両幕府の頃、諸国の守護等、私に新関お構へ、或は津料、河手お収め、以て行人の患お為すものあり、徳川幕府興るに及びても、其弊未だ絶えざりしかば、屡々令お発して之お禁ぜり、此時代に在りては、古に謂ゆる三津は、殆ど其跡お絶ち、肥前長崎、和泉堺等の津、大に著るヽに至れり、