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新編相模国風土記
九十五鎌倉郡
材木座村〈佐伊茂久左牟良〉 小坂郷に属す、〈◯中略〉当村は沿海にあり、東鑑に和賀と見えたるは、即此地の古名なり、同書に西浜、小坪、和賀〈曰、承元三年五月廿八日、西浜(号之飯島)辺騒動、是梶原太郎家茂、消遥于小坪浦、帰去之処、土屋三郎宗遠、依兼有宿意、相逢于和賀辺、殺害家茂之故也、〉と列書するおもて、其地理のさま推て識るべし、其後貞永元年に至り、海湾に一島お築き、〈東鑑に見えし処、下の和賀江島条、併せ見るべし、〉和賀江島と名づくるも、援の地名に因れるなり、又同書に其和賀の津口に材木お置き、奉行人して、其寸法お点定せしめし事見えたり、〈建長五年十月、江津材木事、近年不法之間、依難用造作、被定其寸法、所謂榑長分八尺、若七尺、令不足者令点定之、奉行人可申子細之由雲々、〉是に拠れば当時木料の港たり、故に行年、材木座の名は負はせしなり、今も鶴岡修造の時は、此港に筏木お運湊すと雲ふ、