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古事記伝
三十五
墨江之津、まづ息長帯比売命〈◯神功皇后〉の御世に、住吉大神お鎮祭らるヽ地は、〈◯中略〉菟原郡の住吉にして、今の地には非るお、今地に移されし事は、伝なければ、何の御世なりけむ知がたきお、今此御世に、此津お定賜ふとあるに就て、つら〳〵思へば、彼大神お今の地に遷奉賜へりしも、此同時にぞありけむ、〈神功皇后の御霊お合せ祭給へるも、此時などにやあらむ、〉書紀雄略巻に見えたる趣は、既に今地と聞えたれば、其より先に遷り給へりし事は知られたり、〈住吉と雲地名も、彼兎原郡のより移れる名なり、◯中略〉かくて津の事は、書紀神功巻に、此大神の御誨言に、宜居大津渟中倉之長峡看往来船とある如く、彼菟原郡に坐しほどより、其地大津にてありしお、〈和名抄に、同郡に津守郷もあるは、其津お守れりし人等の居住なるべし、〉此時に、大神お遷奉賜ふまに〳〵、其津おも共に移し定め賜へるなるべし、是今の住吉郡の住吉津なり、〈郡名も移されての後なり、又住吉に近き地に、西生郡に津守郷あるも、かの菟原郡より共に移されたるなり、〉書紀雄略巻に、十四年春正月、身狭村主青等、共呉国使、将呉所献手末才伎、漢織呉織、及衣縫、兄媛弟媛等、泊於住吉津、是月、為呉客道通磯歯津路、名呉坂、〈是お菟原郡なるに非ず、今の住吉の地なりとする故は、倭京へ入料に磯歯津路お開かれたるお以てなり、磯歯津は、万葉六の歌に、和泉国の千沼(ちぬ)とよみ合せたる千沼は、住吉の南にて程近き処なり、さて或人の雲く、住吉の東一里許に喜連村と雲あり、河内の堺なり、昔は河内に属て、万葉に、河内国伎人(くれひと)郷とある処なるお、久礼お訛て喜連とは雲なり、孝謙紀、三代実録などに、伎人堤とあるも此処のことなり、さて住吉より喜連に行間に、ひきヽ岡山の横たはりてある、是ぞ万葉三の歌に、四極(しはつ)山打越見者とある山にて、呉坂は此なるべし、今も住吉より河内へ通りたる此道お、古に呉国人の通りし道なりと雲伝へたり、喜連村に呉羽(くれは)明神と雲社などもあるなり、(中略)其説なほ委きお今は省きて挙つ、〉抑呉国の使は、異国の中にも希見(めづら)しき客なる故に、〈難波津には泊(はて)ずして〉ことさらに此住吉津に泊(はつ)べく、予ておきて賜へるなるべし、凡て異国の事は、此大神〈◯住吉〉の所知看すが故なり、万葉十九に、贈入唐使長歌に、忍照、難波爾久太里、住吉乃、三津爾船能利、直渡雲々、〈◯註略〉是又遣唐使なるお以て、ことさらに此津より発船するなるべし、