[p.0531]
古事記伝
二十七
焼遣(やきづ)、遣字、真福寺本、又一本には遺と作り、今は旧印本、又一本などに依れり、〈五百年ばかり前に出来たる、或書に引るにも遣と作り、〉此字ども甚心得がたし、書紀万葉神名式などに依に、津字お誤れるか、〈遣字、下の横画お去れば、津とよく似たり、延佳本には津と作れど、其は私に改めつるなるべし、諸の本に然作るは無ければなり、〉又は道お誤れるか、〈道ならば夜伎遅(やきぢ)なり、若然らば、夜伎豆(やきづ)とは、やゝ後に訛れるか、はた本より遅(ぢ)とも豆(づ)とも通はし雲るか、何れにてもあるべし、〉かにかくに遣遺などにては、如何とも訓がたけれど、字は姑旧の随(まヽ)にて訓は津(つ)に従ひぬ、〈なほ後人よく考て定めてよ〉万葉三に、焼津辺吾去(やきづへわがゆき)しかば、駿河なる阿倍の市道(いちヾ)に逢し児等はも、神名式に、駿河国益頭郡焼津神社、〈今も焼津村と雲あり、又野焼村と雲もあり、野脇ともいふ、〉和名抄に、同国益頭〈末志豆(ましづ)〉郡益頭〈万之都(ましづ)〉郷と見え、かの風土記にも麻賤(ましづ)の郡など書れど、益頭は音お取れる字にて、即焼津なり、〈此事谷川氏(士清)も雲りき、頭字音お取れゝば益もやく(○○)の音お転して、やき(○○)に用ひたるなり、然るお麻志豆(ましづ)としも雲は、やゝ後に焼と雲ことお忌悪みて、其字の訓に唱へ更(かへ)たる物なるべし、然る例他にもあるなり、〉