[p.0572]
勢陽五鈴遺響
渡会郡十五
大湊 小林村の東にあり、小林東口より大湊西口に至り十五町三十一間半、此間に豊宮河の下流の分流あり、中小河と称す、〈◯中略〉湊船掛り、本邑の前洲崎より南北の間湊口の内なり、干夕のとき深四五尺の処二町あり、深七尺より一丈に至る処、長二町、幅一町二十間あり、潮干のとき五百石より千石に至る舶二十艘余繫ぐによし、百石二百石の舶は百艘許繫ぐべし、大風暴浪といへども如是にして其患なし、又満潮のときは深一丈三四尺、五百石より千石にいたり、海舶百艘も繫ぐべし、百石或は二百石の舟は三百余艘も繫ぐべし、七八月暴風のときは船お繫ぐに悪し、南北の風に不佳、東西の風は妨なし、又湊口より八町半奥に標木あり、即水尾木と雲ふ、潮干とのきは深二尺、或一尺、或は一尺五寸、潮満ときは深八尺余あり、此八丁半の間は舟お繫ぐに宜しからず、此湊口に海船お繫ぐに干満に随ていたる、満潮に非るときは標木の際に至りて、此湊口に入ること能はず、総じて諸州より関東に至る海舶は、此湊口より洋中三里にありて泊するなり、其地より小船に運漕して此湊に入る、故に巨舶は多く此湊口に維ぐなし、〈◯中略〉本邑は諸州海舶の湊集する処にして、常に造舟の工匠修補の巧お尽し、船材帆檣等お賈する家多し、猶粉黛の女四あり、故に民屋近邑に勝て最繁富なり、往昔豊臣将軍朝鮮の役に、軍船お此地にして、九鬼長門守嘉隆に命じて造り役す、〈◯下略〉