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新編相模国風土記稿
百十三三浦郡
東浦賀(○○)〈比賀之宇良賀〉江戸より行程十七里〈◯中略〉 湊(○) 東西浦賀の中間に斗入せり、南お首とし、北お尾とす、〈長二十町余、幅二町余、深さ湊口にては五丈余、〉海路江戸まで十二里、三崎へ四里あり、房総の出崎と海お隔て相対す、其間四里余、道興准后の記に拠に、鎌倉右大将家の頃より開けし湊なりと見ゆ、〈回国雑記曰、浦河の湊といへる所に至る、こヽは昔頼朝卿の鎌倉にすませ給ふ時、金沢、榎戸、浦賀とて、三つの湊なり〉〈けるとかや雲々、按ずるに、西浦賀分郷、小名久此里の属に元浦賀の名あり、蓋古の湊にして、後年此地に移りしならんか、正保の攺めには、今の地則湊となれり、〉享保五年、豆州下田の番所お此に移され、諸国の廻船江戸に入津するもの皆此湊に懸り、番所の改お請く、故に日夜衆船輻湊す、〈其大数月毎に三百余艘、或は四百余艘に至れりと雲ふ、〉又常に此湊に大小の船若干お〈五大力船十一艘、小船五十艘、伝馬船百五十艘、〉繫置て運漕に便す、港中に渡船場あり、〈幅百間余〉西浦賀に達す、