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横浜沿革誌
抑も安政六巳年六月、横浜お開き互市場となせしより、内外人陸続来て開店し、専ら貿易に従事せり、爾来今日の隆盛に赴きしより、当初の形跡お尋子んと欲するも、今は容易く之れお知る能はざるに至れり、現時横浜市は、旧横浜村、同新田、太田屋新田、野毛浦、戸部村、吉田新田、太田村、平沼新田、石川中村、北方村、根岸村、本牧本郷村の拾弐け村に跨り、猶ほ其幾分は郡部に属せりと雖ども、数年ならずして市内に、編入すべきや必せり、盛なりと謂べし、〈◯中略〉横浜開港顚末 坂田諸遠手記 弘化三年閏五月、北亜墨利加軍艦弐艘、相模国浦賀港へ渡来、船将ひつてれ、同所奉行大久保因幡守忠豊に就て互市お請ふと雖ども幕府聴さず、弐艦空く去る、其後嘉永六年六月三日、同国水師提督ぺるり、更に大艦四隻お率い、兵五百お聯隊し、同所に入港す、〈◯中略〉同月六日、米艦進んで本牧沖に至り投錨す、是武蔵海に外国艦の入来せし始なり、〈◯中略〉安政元年正月十三日、米使ぺるり、軍艦七隻お帥い、将に内海に入らんとす、番吏追て之お還さんとすれども肯ぜず、次日進で本牧に投錨し、空砲お発し、海底お測量す、〈◯中略〉浦賀に於て応接するは、到底彼の肯ぜざる所なるお察し、神奈川に於て応接せんとの議ありしが、〈◯中略〉同所は東海道の街路に当り、往還頻繁応接所お開くは煩雑あらんことお遠慮し、江戸表へ廩議の上、久良岐郡横浜村に応接所お新設し、〈◯中略〉三月三日、横浜村応接所に於て、健、覚弘、政義、長鋭、松崎某等、ぺるりと通親永世不朽お締盟し、下田箱館二港お開き、総て十二条の約書お交換し、同月十三日、米艦神奈川お出帆、同月廿一日迄に悉く下田港に入る、以上横浜に外国船渡来の権輿なり、〈◯中略〉 横浜村は、旧幕府旗下、荒川金次郎の采地にして、新田は代官小林藤之助之お支配せり、安政六己未年、豆州下田港お鎖し、米英仏旅蘭の五国と和親条約お締び、武州神奈川に於て貿易せんことお約し、其筋の役々神奈川に出張す、〈◯中略〉先づ横浜に於て内外居住の地、及役所取締場の地位お査定し、著手順序お計画す、〈◯中略〉 宮本小一君曰、亜米利加使節はるりす、日本政府に請て一旦下田お開かしめ、更に神奈川に転ぜしは、はるりすの失策なりと雲へり、蓋し下田は港湾狭隘にして、大互市場とは為しがたきお、下田と定めしは失策と雲べし、是或は最初より江戸近く開港お求むるとも、幕府之れお承知せざれば、漸お以進むの考にして、失策とは雲がたからんか、而して神奈川お強て請求し、幕府之れお聞届たるに及び、彼れは神奈川駅の方へ居留地お開く見込なり、然るお此方にては、横浜へ一時被理、上陸調印の場なるお以、是非此処と推付け談判す、彼れは神奈川とあるお押へて、街道にあらざれば肯ぜず、我れは街道にては諸人通行多く、取締に不便なれば横浜と主張す、彼れは神奈川駅は大名の参勤交代通行多く、随て物品売八き方宜かるべければ、是非とも駅の方お望むと主張す、外国奉行等大に困究す、水野筑後守英断し、横浜の方へ土木お起工し、我商民お誘ひ移住せしめ、其勢お以各国人おも承伏せしめ、遂に横浜へ決す、然れどもはるりすは前約お堅く執て承知せず、遂に領事丈けは各国其国の旗お建、駅の寺院お借て寓す、夫れがため此取締等に、外国奉行の方にては甚だ手数と費用とおかけしなり、此領事の宿守は、万延元治の頃迄打続き居り、屡々賊徒の忍入る等の事ありしが、横浜隆盛なるに随ひ、南北の相隔り不便なれば、彼も我慢お折りて、横浜の方に段々と移る、移る度毎に外務掛にては大に安心して、一け所づヽ厄介の減ずる心持せり、