[p.0578]
敦賀志稿
此郡は上つ御代には、気比浦といひしお、吾大神誉田別皇太子と大御名かへましヽおほん時よりぞ、世の人皆つのがとはいひならしけむ、ところのさま、群山たちへだてヽ、いさヽかも他境おまじへず、東は南条郡に隣り、東南は近江国伊香、浅井の両郡にとなり、西は若狭三方郡にとなり、北は海おいだきて、蝦夷まかつにつヾきたる大洋也、〈◯中略〉入海の間、東西のわたり或は一里或は二里、南北五里余有、山海の眺望さながら画にもかよひていとおもしろく、目とヾまる処ぞ多かる、此処より松前に至る船路三百余里が間には、越後国の新潟と、此敦賀と隻二所ぞすぐれてよき湊也といふ、浜は白砂にていと奇麗に、海は底ふかくて、大さのかぎりといふ船も、いそぎはちかくよせ来ていかりおろす也、かヽる処外にはなしといふ、さればにや常に出入舟多くして、いと賑はへり、〈◯下略〉