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筑前国続風土記
十三遠賀郡
岡湊 蘆屋のみなとなり、或岡の津、岡の浦とも称す、仙覚万葉の抄には、岡の水門は、筑前国にあり、風土記には、瑦柯(おか)県の東の側に近く大なる江口あり、名て瑦柯水門といふ、大舶お容るに堪たりといへり、日本紀に、神武天皇、日向国より東征し給ふ時、先筑紫の岡の水門にいたり給ふよし見えつる、然ば人皇のはじめより、すでに此跡の名はいちじるく見えつれば、いと久しき名所なり、或の曰、内浦と吉木村の間、むかしは入海にて、是お岡の湊ならんかといふ、此説非なり、右の仙覚が引ける風土記の説お以て見れば、蘆屋なる事疑なし、いはんや又蘆屋の里民も、むかしより此跡お岡の湊と雲伝へてより語り侍ける、歌には、水くきの岡の湊とも読り、〈◯中略〉此所北面に海有て、其東は遥際なくはるかに、唐土の海に通ずれば、つねの風波あらくして、船客の魂お驚す、されば此海は蘆屋洋とて、旅客の甚だおそるヽ所なり、〈◯中略〉永禄元年、秀吉公朝鮮に軍勢お渡し給ひける時、此湊に船おあつめて渡海させらる、池田備中守長吉其事おつかさどれり、此湊近き世まで、三頭の上猪隈の遥迄入海ふかくして、大船滞なく上下せしといふ、今は然らず、