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徳川禁令考
六十二貿易允裁
元和三巳年八月十六日 阿蘭陀人江御朱印并松浦肥前守江奉書〈原註、阿蘭陀人に再御朱印被下賜文、松浦肥前守江御奉書被成下之、台徳院様御朱印之写〉 阿蘭陀商船到本邦渡海之節、縦遭風波之難、雖令著岸、日本国裏熟地聊以不可有相違也、 元和三年八月十六日 けんれいかほろわる 奉書之写 尚以京都堺商人も、其他へ可罷下候間、相対商売致候様猶候、 急度申入候、阿蘭陀船於平戸、前々之如くかびたん次第に商致候様に可被成候、不及申候得共、伴天連之法ひろめざる様に可被仰付候、恐惶謹言、 八月廿三日 土井大炊頭 安藤対馬守 板倉伊賀守 本多上野介 松浦肥前守殿 人々御中 元和四午年八月 黒船いぎりす船之儀に付奉書 急度令啓候、仍黒船いぎりす船之儀、於長崎平戸令商売之旨、至于諸国諸湊被仰出罷上候、寄事於商売、密々にも不可弘其法様可申付旨上意候、恐々、元和四午年八月 右五人衆〈五恐四之誤〉松浦肥前守殿 長谷川左兵衛殿 追而唐船之儀は、何方江著候共、船主次第於其所可売買旨被仰出候、