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地理纂考
十一薩摩
川辺郡坊津村坊津(ばうのつ)港 往古唐湊(○○)といへり、方角集に即ち唐湊とあり、武備志登壇必究、并に坊津に作る、海東諸国記房津に作る、偖坊の津の名は、当郷一乗院往古大寺にて、上の坊、中の坊、下の坊等と数坊ありしが、遂に地名とはなりしなり、抑此の湊は、皇国三津の一つにて、〈筑前博多津、伊勢安濃津、薩摩坊津、〉武備志に津要有三津、皆商船所聚、通海之口也、西海道有坊津、〈薩摩州所属〉惟坊津為総路雲々とあり、当津は皇国西海の辺垂にして絶域に対望す、因て昔時支那西洋の通商、互市する者、此の津に輻湊て自由お得たり、因て唐湊と号く、当時此の所は市店檐お連子、楼屋甍お並べ、人煙富庶なりしお、慶長年中、肥前国長崎の湊お以て、諸蕃来朝の湊と定りしより、自然と繁華地お払ひて、遂に一漁村となりにたり、然れど良港なれば旅船数艘碇泊常に絶えず、且漁猟余多なれば、自然に其潤沢ありて、豪富なるも少からず、偖此の地層岡畳山三面に環り、其内に海湾ありて、湊口西に向ひたるお東に入る、更に南に転る、湊口の闊き三町四十間、湊の奥まで十二町余、周廻三十余町、深さ三十六尋より四十余尋にて、高岳三方に回り、隻西の一方のみ大瀛に接すれど、猶湊口の左右より、其の觜、呉(くれ)の崎(さき)などいへる、山岳余多海中に遠く突出して、其嘴喰違たれば、いかなる大風といへども更に難ある事なし、又良港なるのみならず、四面怪岩奇石連り、其風景の奇絶なる、唐画の山水に似たり、 ◯按ずるに、唐港の事は、津篇坊津条に詳なり、参看すべし、