[p.0593][p.0594][p.0595]
関とは国境、若しくは要害の地にして、出入与に之に由らざる可らざる道路に設置し、往来の人お譏察して、以て不虞お警戒する門なり、是おせきと雲ふは、塞き止むる義にて、又せきとと称す、とは門の意なり、抑々関の濫觴は未だ詳ならずと雖も、神功皇后摂政の時、針間と吉備との界に、和気関お置きたることの新撰姓氏録にあるは、蓋し史籍に見えたる始なるべし、大化改新の時、始て関制お立て、凡そ諸国の関塞には必ず鈴契お給し、国司おして之お掌らしむ、大宝の令成るに及ては、其制漸く備はり、伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発〈後近江の勢多に代へ、復た逢坂に改む、〉お以て三関と称し、武器お備へ兵士お配し、以て京師の守衛に備へたり、桓武天皇の朝、中外隔絶し、公私の往来稽留お致すの故お以て、一旦並に之お停廃せしが、後久しからずして旧に復しぬ、此三関は天下事あれば必ず先づ之お鎖さしむ、之お固関と雲ふ、固関とは、天皇の譲位崩御、若しくは上皇皇后の崩御、摂政関白の薨去等、凡て非常の事有るに臨て、不時に行ふものにして、固関使おして、木契及び勅官の二符お携へしめ、馬に騎り鈴お振りて赴かしむる儀あり、固関数日にして、再び使お発して関お開かしむ、之お開関と雲ふ、 開関の儀は、大概固関の時に同じ、開関使帰り来れば契お御所に納れ、或は局に就て之お破却すと雲ふ、後には其儀お行ふに止まりて、使の下向することも久しく絶えしが、後堀河天皇の頃となりては、其儀おも併せて行はざることありて、漸く弛廃するに至れり、当時関お通行せんと欲するものは、皆本司本貫お経て過所お請はしむ、 過所とは、関所通行の免状にして後の謂ゆる関切手なり凡そ三十日お以て一限と為し、限お過れば復び之お請はしめたり、人の名お冒して、過所お請ひて関お度るお冒度とし、過所お請はずして度るお私度とし、関門に由らざるお越度とす、皆律の禁ずる所なり、後世過所お過書と書するは、蓋し字音の相同じきが故に誤れるなるべし、源頼朝府お鎌倉に建つるに及て、関お通行せんとするものは、僧侶山伏の外、必ず関手お出さしめたり、 関手は、一に之お山手と雲ふ、ては価直(あたひ)の義にして、万葉集の加利氐の氐、今日の言の酒手の手の如し、故に又称して関銭、関賃などもいへり、初は関吏の粮食に当つるが為に之お徴せしと雖も、旅人の困難となるお以て、建保の頃之お廃して、別に料田お置き、其代となさしむ、然れども猶ほ商賈往来の苦お致し、年貢運送の煩おなすお以て、後醍醐天皇即位の始、大津葛葉の二関お除く外、悉く諸国の新関お廃せらる、足利氏の末葉に至りては、争乱相継ぎ、国用漸く足らず、為に復た新に関お設て関銭お取り、之お以て或は社寺の営繕料となし、或は内裏の修理料となすものあるに至れり、加之当時又別に関役と称して、関吏おして公用お務めしめ、関銭の幾分お納めしむることありしが、動もすれば之お通行の船舶に課し、役銭お合せて責め取ることなど起りて、其弊の臻る所益々甚しくなれり、織田氏大に滋に鑑み、天下漸く定るに及て、已むお得ざるものヽ外、尽く諸国の関お除き、以て豊臣氏の時に至る、徳川氏豊臣氏の後お承て、天下に令するに及て、新に制お立て、諸国緊要の地には必ず関お設け、奉行お置て之お司らしめ、特に相模の箱根、浦賀、武蔵の小仏、栗橋、上野の碓氷、下総の松戸、市川の七関お厳にして、以て江戸の守衛に当てたり、元禄の頃奉行お廃して、所在の領主おして之お預らしむ、領主は更に与力、同心、又は番頭、常番、足軽、中間等お遣りて、之お守らしめたり、此時に当りて古の過所は既に其名お失ひ、新に通手形の称起れり、 通手形とは、関所通行人の身分容体所用物品等お明記し、之に身元引請人、又は主人頭支配等の直判お押せる証文にして、大抵二箇月お以て通用期限とし、之お過れば必ず勘定所お経て、留守居の添状お請はしめたり、武器の運搬、婦女の通行は殊に厳察する所にして、鉄砲、弓、長柄等、領主行列に用いるものヽ外は、必ず老中〈希には留守居の裏印お用いることあり〉の裏書お請はしめ、女手形には留守居の証文お添へ、且つ検閲の女おして子細に其容貌お査覈せしめたり、是故に若し私に関お通行するものあれば、輒ち之お主殺、親殺、師匠殺の三罪に準じ、以て磔刑に処せり、慶応三年大に改革お行ひ、従来の制お弛めて印鑑引合お廃し、鉄砲手形女手形と雖も、別に裏書お要せざることヽなりしが、明治維新の初に悉く天下の諸関お除き、今は全く其跡お止めざるに至れり、