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底倉之記
元中四年二月、伊達信夫南部下山田村庄司岩城刑部大輔忠門、相馬下野守以下、霊山に会合して、著到の勢二万七千余騎、義隆貞方両大将として白河へ発向す、親朝是お聞、今度は宮方目にあまる大軍なれば、平場の掛合はかなふまじ、難所に引籠り討出ふせぐべしと、白河の関おさし固め、渡り櫓(○○○)、高矢倉(○○○)三十余け所にかきならべ、強弓の精兵おすぐり上せ置き、塀(○)うらに大木大石おつみたくわへ、用心厳しく待かけたり、味方の勢は三月一日白河近く寄、〈◯中略〉関近くなりける時、木戸(○○)お押開き、真先に結城の一族佐原備前守と名乗て、〈◯中略〉大勢の中へ打て入〈◯下略〉