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新編相模国風土記稿
二十七足柄下郡
箱根御関所 宿〈◯箱根〉の東方にあり、〈◯中略〉建置の始お詳にせず、或は元和四年箱根新駅開けし頃の事なるべしといへり、〈安国殿御家譜には、慶長十五年頃の事となす、〉抑箱根山中に関隘お置しは尚しき事なれど、其地は変遷ありしとみゆ、承久の乱に鎌倉の評定に、足柄箱根両道に関お固め、官軍の下向お待べきの議あり、〈◯註略〉此頃既に関ありし事知るべし、其地は何れの所なりや考ふべからず、康暦二年六月、箱根蘆川宿の辺に関お置、其征銭お鎌倉円覚寺修理の料に宛し事見ゆ、〈◯註略〉これ当今関所の辺なるにや、されど蘆川宿お元箱根の辺と雲説あれば、彼所の事なるも知るべからず、〈現に元箱根にも古関の蹟あり〉応永十三年六月の文書に、箱根山水飲関所の事お載す、〈◯註略〉水飲といへるは箱根山中にて、豆州君沢郡山中村の属なり、天正十年十二月、朝比奈弥太郎、小田原より日金越に駿河に帰りしに、箱根山中にて異形の女に出会、山の麓玉沢と雲所〈豆州の属〉に至り、山中の関守半田と雲る人の女お荼毘せるお見て、先の女はこの幽魂ならんと思ひ誤りし事あり、〈小田原記所載〉此頃は尚豆州山中に関ありしならん、同十七年十月、豊大閤、小田原出陣の用意として、北条氏より山中城お増広め修営せし時、前の岱崎お城構に取入る、是は昔の関所の蹟なりとみゆ、〈同書〉然れば此頃山中の関は既に廃蹟となりし事知らる、又箱根社伝には、箱根の古関は横大門鳥居の辺にありしお、後に今の地に移されしとなり、