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東雅
二地輿
山やま 義詳ならず、万葉集抄に、昔は山おいひて子といひし也、やまといふは、やは高き義也、まは円(まとか)なるおいふなり、其形の高く円なるおいふ也といへり、されど古語に八俣(やまた)といひ、八田間(やたま)などいひし例によらば、やまとは、唯その高く隔りぬるおいふに似たり、古語にやと雲ひしには、重り積れるおいひ、まと雲ひしには、限り隔りぬるおいひしあり、凡そ物かさなり積りぬれば、其形自ら高し、限り隔りぬれば、その勢自ら間あり、されば後に漢字お伝へ得て、弥の字お読てやといひ、間の字読てまといひ、やまなどいひける也、〈古に子といひしは、即嶺也、屋おやといひしが如きは、高き義なり、玉おたまといふが如きは、円かなるの義也、されど山の如きは、其形必円なりともいふべからず、古語にいやといひしが如きは、いは発語の音なりともいひ伝へたり、今も俗にいやが上に重れりといふが如きは、古語の遺れるなり、弥の字お読て、やともいやともいふに至て、其字義によりて、此詞の増すといふ義になりし程に、我国太古の時に、重り積れるおいひて、やといひし義は、隠れて見えずなりぬ、八の字読て、やといふが如きは、此義ありとも見えけり、凡は古語の義お失ひし、是等の類多かるべし、先達の言に、あながちに漢字に執すまじき事なりといはれしは、是等の事のためにやあるべき、すべてかヽる事の如きは、よく我国の古書お読む法知らん人は、其義自ら明か成べければ、多く言お費すにも及ぶべからず、〉 山の字読て、むれといひし如きは、百済の方言也と見えたり、釈日本紀に、峯嶺并に読てみ子といふ、上古には子とのみいひし也、万葉集抄に、昔は山お子といひしといふはこれ也、筑波根、富士根などいふ類也、