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和州巡覧記
多武(たふ)の峯(みね) 談山(かたらい)とも雲、吉野より四里余、細嶺より一里北に在、細嶺より北へ流るヽ谷は桜井の方へ下る、又道の傍に西より流出る横浜有、是多武の峯の入口なり、橋あり、それより西へ六町ゆけば、多武の峯大職冠鎌足公の神廟有、右の峯の下の傍高所に在、南面也、峯頭にはあらず、廟堂門廡皆美麗お極む、甚儼然たり、社領三千石附り、廟前に澗水流る、廟後は青山美景也、向ひにも青山有、両山の間近し、神廟の西に十三重の小塔あり、名誉の塔也、此下に大職冠鎌足公の遺骨お、其長子定〓和向、摂津国阿威(あい)山よりこヽに改葬せらる、此事元亨釈書第九巻定〓伝に見えたり、右に出たる十三重の塔は、唐より取来りし材なり、此事又釈書に見えたり、定〓は淡海公の兄なり、廟の左右とむかひは、皆僧坊なり、叡山の末寺也、多武の峯お出て、本の道に付て北へ少下れば、町屋有、是より麓までの道は峻しからず、両山の間の谷阻お漸くに下る、道の傍に村里多し、多武の峯より五十町下れば、多武の峯の鳥居のあと有、今は鳥居なし、是より多武の峯まで、毎町に石表お立て、町数お刻む、鳥居の跡より桜井の宿迄十六町有、