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古事記伝
三十一
逢坂(あふさか)、名の由縁書紀に見えて、次に引り、孝徳紀大化二年の詔に、凡畿内は東は雲々、南は雲々、西は雲々、北は自近江の狭々波合坂(さヽなみあふさか)山以来、為畿内国(うちつくにと)とありて、山城と近江の堺にて、近江に属り、〈今大津の西なる坂路是なり、〉万葉六〈三十五丁〉に、大伴の坂上郎女奉拝賀茂神社之時、便超相坂山望見近江海雲々、木綿畳(ゆふたヽみ)、手向乃山乎今日起而(たむけのやまおけふこえて)、〈手向山、即逢坂山なり、〉十〈五十五丁〉に、吾妹児爾(わぎもこに)、相坂山之皮為酢寸(あふさかやまのはたすヽき)、十三〈六丁〉に相坂乎(あふさかお)、打出而見者(うちいでヽみれば)、淡海之海(あふみのみ)、白木綿花爾(しらゆふはなに)、浪立渡(なみたちわたる)、又、未通女等爾(おとめらに)、相坂山丹(あふさかやまに)、手向草(たむけぐさ)、麻取置而(ぬさとりおきて)、十五〈三十五丁〉に、和伎毛故爾(わぎもこに)、安布左可山乎(あふさかやまお)、故要氐伎氐(こえてきて)、