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和州巡覧記
凡此山は、六田の方の麓より、奥の院まで百余町の間、民家なき所は、左右皆並木の桜也、又左右の傍も、下の谷も、左右のかげなる所々の谷々にも、皆桜多し、まれに杉有、二三月は花の世界と雲つべし、榧(かや)は谷底に多くして、山にはなし、春は麓より先花開初て、やうやく山に咲のぼりて、奥の院にておはる、麓の花盛過て、中の花盛になる、中の花盛過て、上の花盛に開く、其間大やう三十日許有、又晩桜は麓にも所々に在て、春の季、奥の院の花盛の比、盛に開く有、初桜は高き所にあるも早く咲也、凡此山の桜は、皆一重なり八重桜は山中及民家僧坊に一株もなし、寒風はげしき年、或風雨久しく続けば、花の容色あしヽ、故に年に寄て好否あり、山僧の曰、此四十年以前は、今よりも此山に桜多し、今は昔より少なし、山僧又曰、凡此山の花、上中下一時に不開といへども、大やう立春より六十五日に当る比お盛の最中とす、又里人数人に問にも、皆如此いへり、但年の寒温によりて遅速あり、是町より前の桜多き所のさかりにあたる、吉野の町より少前東の方に山のさし出たる所有、桜のさかり此あたりより、左の谷の内まへよりむかひ、左より右およそ方二十町ばかり、たヾ一目に見えて、皆花の林なり、おもしろき事たとへていはんかたなし、雪のあけぼのはたヾひたしろにて、わいだめなし、此所花のところ〴〵にさきほころびたるよそほひ、うき世の外の物にやとあやしまる、およそ桜は雲すきに見えたるはあやなし、山のかたほとり、又谷そこにありて、むかひにすき間なき所にあるお見たるがよき也、此所の花は、四辺の山のかたはら、谷のそこにあるお、たかき所よりのぞみ見て、たとへば大なる盆などの内お見るやうにぞ侍る、かうやうのめでたき見ものは、やまとには雲におよばず、おそらくは見ぬもろこしにもあらじとぞ思ふ、其外のあだし国はさら也、子守より上の花はおそし、此山にて桜お切事お甚禁ず、桜木お薪にせず、故に樵夫桜お売らず、若薪の内に桜あれば、里人是おえらびすつ、是里人の偏に桜お愛するにもあらず、蔵王権現の神木にて惜み給ふと雲つたへて、神の祟お畏るヽ故なり、