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古史伝
三十一神代
此山の今の委き有状は、富士山内記と雲書に、富士山は、甲斐国都留郡の西南、壙野の中に兀立孤絶す、山の東北は都留郡、西南は駿河国駿東郡富士郡なり、山足の壙野、甲斐駿河お合て周回三十八九里許なるべし、〈武田勝頼の願書に、三州に跨と書たれど、甲斐駿河の外に跨る国なし、衆皆駿河は四分の三、甲斐は其一お有と雲ど、駿河は三分の二、甲斐は其一お有つ、是定説なり、玄道雲、釈常庵集に、富士之為山也、其高踰一由旬、而横跨豆駿相三州と雲、物茂卿が峡中記行に、載籍以来、以山隷駿州者、蓋取諸海東瞻仰之有在也、其実則山之在本州者六之三、駿為二、豆為一、古人炉莽お免ず、或は跨于四国と記る等は、更に論にも足ず、又二国のみに跨て、相模にかヽらずとは、甲斐国志裏見寒話にも説、国志には七分お甲斐の山也といへり、地蔵霊験記に、駿河富士の御岳お拝し給に、三国無双の御山、峯は半天おさヽへて、雲に入り、夏の夜なれども霜お副へ、麓は群峯重畳せり、春の日ながらも錦お暴(さらし)て、星は緑野に連り、日は海底より出給なれば、巍々たる勢、蕩蕩たる粧、喩るに物なしとも見ゆ、〉