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著作堂一夕話

富士の農男并浅間の弁 享和壬戌夏五月、囊お担、杖お曳、ゆき〳〵て駿河の府中にあそぶ、彼地の人の説に、四五月の頃、富山の雪やヽ消残りたるが、宝永山の辺凹なる所に、人の形の如く雪の残る事有、是お農男と名付、此残雪の見ゆる年もあり、又見へざる年も有、田子の土人曰、農男見ゆる年は、必ず五穀熟すと、又昆陽漫録に載する処の、富士の根がた、水田中に麦熟と是お水入麦といふ、是雪水〓(こやし)と成て麦みのるといふ、駿河の人に此事おとへば、然る事ありといへり、凡此山の眺望は、駿州有渡郡大野村〈府中より三里〉竜華寺の本堂より見るお第一とす、清見寺これに亜、原よし原の間又好景、三島沼津より見れば大にひきく、岩淵薩陀峠よりみれば、胸につかへる様にて凄じ藐姑峯は斎の川原より、壱の平らまで、ふじお右に見る、一の平最よし、西行法師の、山の上なる山は、ふじの根とよみたりしは、此所なるべし、予庚申年豆相二州お遊歴せし日、三島の客店に士峯お賞す、暫時百景目前に有、あした毎に雲起て巓お覆ふ、土俗是お笠雲といふ、其雲西へ行時は、三日お出ずして雨あり、東へ行時は快時すと、これお試るに果してたがはず、〈◯中略〉天正十八年、小田原陣の時、細川幽斎ふじの歌よまんとて、歌書おほく携給ひしが、古人の名歌に恥て、終に歌なかりしとかや、近時俳諧師芭蕉、生涯富士の発句なく、丸山応挙富士お画ずといふ、ばせおは佳句の得がたきお嘆じ、応挙は富士お見ざるおはづ、視て句のなきと、見ずして画せざると、うらみそれいづれか深き、共に道に心お用る人といふべし、