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春波楼筆記
吾国にて奇妙なるは富士山なり、此は冷際の中、少しく入りて、四時雪峯に絶えずして、夏は雪頂きにのみ消え残りて、眺め薄し、初冬始めて雪の降りたる景、誠に奇観とす、富士は駿河の国内より見たるはあしく、二十里三十里隔たりて、遠くより望む時は、山お高く見る、低き地より望みては景色なし、此山のかたちは、世界中になし、元市場と雲ふ処は、白酒お売る処なり、援にて富士山の図お板行に彫りて、埒もなく押してあるお、蘭人往来する時、何枚も需むる事なり、さて此山は、神代の以前より焼出し、数千年お経て、四面に砂お吹きふらし、如此かたちとはなりぬ、我壮年の時までは、頂より煙立ちけるが、今は煙なし、山岳は皆世界の不開前の物にて、波涛の形あり、此富士のみ、出現の山なり、遠く望むべし、山には登るべからず、天の逆鉾の如き、埒もなき物よりは、此富士お称歎すべし、夫故予も此山お摸写し、其数多し、蘭法蝋油の具お以て彩色する故に、倣仏として山の谷々、雪の消え残る処、或は雲お吐き、日輪雪お照し、銀の如く少しく似たり、吾国画家あり、土佐家、狩野家、近来唐画家あり、此富士お写す事おしらず、探幽富士の画多し、少しも富士に似ず、唯筆意筆勢お以てするのみ、〈◯下略〉