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甲斐国志
二十山川
巨麻郡北山筋 一金峯山(きんぶせん) 府北拾弐里、山頂に蔵王権現お祀れり、州の北鎮にして、享保中勅許、八景の一なり、背面は信濃、武蔵、上野等にて、凡方弐拾里に跨がると雲、山口九所あり、所謂南口は、吉沢、塚原、亀沢、東口は、万力、西保、杣口、西口は、穂坂、江草、小尾、各里宮、鳥居嶺、精進川、帯締川など雲処あり、〈◯中略〉山上より四方お臨眺すれば、信、越、二毛、武、相、豆、駿、遠、三、濃、飛、諸州の高山、一覧して尽すべし、抑、金峯の為山、土肥巌は霊にして、御岳の杉柏本州に冠たり、其余、良材、奇草、水晶、石英、磁石、玄石等お産す、又金鉱多し、号して神物と称し、古より山お鑿ち採ることお禁ず、又水脈多く、笛吹川、荒川、塩川、信州の千隈川等、皆な此山より発源し、古人所謂金生麗水と雲もの不誣なり、峡中紀行に、北之山、其最遠最峻、而岝崿剌天者、金峯也、蔵王宮之、皆黄金地、神所甚愛惜、以故人往者、還必棄其鞋山中、跣足出、不得拾其一塊石と雲が如し、億乗曰、古図に金峯お玉塁とす、多麻賀畿(たまがき)と訓ずべし、今小尾、比志等の里人、此山の麓お指て瑞塁(みづがき)と呼ぶ、蓋し古名の偶存したるならんと、地名筌曰金峯州之北鎮也雲雲、山神秀而産霊薬珠玉、古人比之玉塁、蜀都賦、包玉塁為宇、坑峨盾之重阻、府城南面亦有峨岳、則近蜀之称、不凱信然乎、江賦玉塁為東別之標、川流之所帰湊、雲霧之所蒸液、珍怪之所化産、塊奇之所窟宅雲雲、又雲、玉巌出濺水、即荒河者濺水也、濺与荒方言転、蓋誤矣、〈荒川は後に記せり〉又残簡風土記に、山梨郡西限玉緒〈一作諸〉川とあるも、玉塁の名に於て所由なきに非ず、又州人金峯お幾牟夫宇(きむふう)と唱ふるは方言なり、信玄の文書にも、亦金風山に作れり、方言に従て書するは、当時の風習なり、別称に非ず、〈信州の人は、幾牟凡字と呼ぶ、〉又幾日峯(いくかのみ子)お、此山の別名なりと雲は、続千載集、順徳院御製百首の中に、千隈川春行水は澄にけり消て幾日の峯の白雪〈風雅集にも載せたり〉とあり、是に因てなるべし、