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雲萍雑志

予江戸にありしころ、武甲山にまうで、日本武尊の旧地お拝せんと、雨降山かけて、人のまうづるにともなはれ、青梅村より御岳山に登れり、このあたり承平のころ、平の将門が旧塁多く、すべて古戦場とぞ、道しるべするもの江戸の人にして、もとこのあたりの産なりといへり、 武野古戦場記に雲、武お崇め、岳の高きに蔵して、神威お承平の和にしめし、文お黎民の際にやはらげ、徳お国家の仁政にしきぬる、むさしの国御岳の山は、叔倉子義お違へぬ標有梅の、青梅の里まで、江戸お去ること十有三里にして、行程に山河橋陵なし、青梅村中金剛精舎、古樹の梅あり、四時実お結び、熟すれども、緑のいろおかへざるが故に、青梅の名あり、連山西北おめぐりて、さながら絶壁に似たり、閭巷お過ぐること十町ばかり、貉沢お下れば渓路斜にして桟あり、村落に流れ入れたり、ひなたの和田といふ、朝日にむかふ名なるべし、一顧すれば多摩川の流れおへだてて、山々水にそばたち、石にむせぶ流の音、谷にひヾきて人のあらそひわたるが如し、山河すべて縈糾して、数里の間に屈曲し、岑にかくれ谷にあらはれ、さらす調布さら〳〵にと詠じたる昔の歌の姿なり、山聳えては頂に露台のあとおとヾめ、岸崩れては石に楯沢の名お残し、往古に戦場の枢要たるも、陰鬱たる叢沢となりて、僅に山がつの樵路おわかち、露深くして草旧塁の礎お埋め、月さびしうして尾花白刃のひかりおまじへ、旌旗風にひるがへりて、松に白鷺お宿し、翠桃枝おたれて、丘に弓絃の糸おたち、利鏃いたづらに田園にくじけ、宝刀むなしく壌の中にうづめり、花鳥に時お感ずれば、歌舞の栄華もまのあたりにして、月にむかしおしのべるときは、錦繡にほこれる盛衰も、紅葉の色のうつろふに見えたり、殺気長く昇平の日影に消えて、戦塵に似し雲もなく、人家軒おならべて、路に竈のにぎはひお列ね、ゆくかた〴〵に踏み分けし、数多の道も街となり、ありといふなる逃水も、俊成卿の比興とはなりぬ、