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近江国輿地志略
二十一志賀都
比叡山 当郡の西極、長等山の北にある山なり、皇都の艮(こん)岳にして、皇城の鬼門お鎮護すといへり、慈鎮の拾玉集に、我山は花の都の丑寅に鬼いる門おふたぐとぞきく、此山西の山麓は、山城国にして、西塔も亦山城国に属すといへども、比叡山といふ時は、近江の国内たる故に、西塔の事おも書記す、此山至て高し、春に及で猶雪あり、拾芥抄に、本邦の七高山お載たり、比叡其一なり、此山麓より攀躋する時は五十町余あり、坂本とより頂上大岳まで、直立すれば六町余なり、貞享年中、京都御所司代土屋相模守殿、京地より是お考撿し玉ふにも六町余なり、自古此山お、専都の富士と雲、徹書記物語に曰、愛宕山の一の鳥居より望ば、叡山は宛も駿河の富士山に似たりと雲々、むべなり、〈◯中略〉拾遺集に、読人しれず、我こひのあらはにみゆるものならば都の不二といはれなましお、近衛稙通公の嵯峨記曰、比叡山お見やりて、降つもる雪のころなおさぞなとも都の富士の岳の曙、其外世々の歌仙多詠ず、管見記曰、叡山の雪、誠に可謂都富士也、如此都の富士といふお以、人或は山城の国なりと思へり、非なり、旧事本紀曰、近淡海国比叡山、古事記曰、近淡海国日枝山、是お以山城の国にあらざる事お知べし、〈臣〉按ずるに天地の物あるや、皆理に陰陽あり、形に前後あり、山の形平なるお前とし、険なるお後とす、此山東はなだらかにして前なり、西はするどにして後なり、近江は前なり、山城は後なり、〈◯中略〉亦此山に異名およぶ、天台山、我立杣、鷲の山、台嶺、地嶺、山門、艮岳、是皆伝教大師延暦寺草創以来の名なり、