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古事記伝
二十八
此の山は、近江の国と美濃の国との堺に在て、〈西は近江の坂田郡、東は美濃の不破郡池田郡なり、〉神名帳に、近江国坂田郡伊夫伎の神社、美濃国不破郡伊富岐の神社あり、〈今坂田の郡にも、不破の郡にも、伊吹村と雲あり、〉三代実録三十三に、詔以近江国坂田郡伊吹山護国寺列定額、沙門三修申牒称雲々、此山即是七高山之其一也雲雲、〈藤原武智麻呂公伝と雲物に、徙為近江守雲々、於是因按行至坂田郡、寓目山川曰、吾欲上伊福(いぶき)山頂瞻望、土人曰、入此山、疾風雷雨、雲霧晦冥、群蜂飛螫、昔倭武皇子、調伏東国麁悪鬼神、帰到此界、仍即登也、登欲半、為神所害、変為白鳥、飛空而去也、公曰雲々、率五六人、披蒙籠而登、行将至頂之間、忽有両蜂、飛来欲螫、公揚袂而掃、随手退帰、従者皆曰、徳行感神、敢無被害者、終日優游、徘徊瞻望、風雨共静、天気清晴、此公の勢力之所致也と雲り、此は僧の作れる書にて、例の信(うけ)がたきこと多し、源平盛衰記に、宝剣の由来お雲る処に雲、素盞嗚尊、即天照大神に奉る、大神大に悦びまし〳〵て、吾天岩戸に閉籠りしとき、近江国胆吹(いぶき)が岳に落たりし剣なりとぞ仰せける、彼大蛇と雲は、胆吹大明神の法体なり雲々と雲り、さて伊服伎(いぶき)と雲名の義は、山の神毒気お吹よしなりと谷川氏雲り、さもあるべし、さて万葉には、此山の歌無し、又六帖などに、さしも草およめる伊吹山は、下野国なりと、顕昭が袖中抄にも見え、契冲も、清少納言が草子に、まことや下野へ下ると雲ける人に、思ひだにかヽらぬ山のさせも草たれかいぶきのさとは告しぞ、ともあれば、下野国なること必定なりと雲り、〉曾禰好忠歌、冬深く野はなりにけり近江なる伊吹のとやま雪ふりぬらし、〈続古今集に入れり〉