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信府統記
六安曇郡
信越の界、えびらが峯の南にある乗鞍岳のことは、前に記したり、但し横前鞍風吹と雲へるは、此岳に並べる小名所なるべし、此乗鞍岳の西面は、越後越中国界なり、又松本領塩島新田の西にある乗鞍岳に付き、委細のことお重て記すべし、総て松本領に乗鞍と号するもの三つあり、内二つは隣国に堺せるものにて、既に前に記したり、今援に載する所は、当与塩島新田分の山なり、元禄年中、改められて官庫に収まる所の、国絵図に載せたる乗鞍岳は、国境にある所の二つお記せるのみにて、此塩島新田の乗鞍は、他国他郡に交はらざる故、略して載せざりしお、享保七年、公命ありて山見通しの為め、建部彦次郎より御指図として、官庫の絵図に載する所の乗鞍より、埴科郡妻女山と、小県郡根津領湯の丸山へ見通しのこと、仰付られし時、清水次郎右衛門木藤仙右衛門、長谷川繁右衛門、中根又右衛門の四人おして、山々お見分せしむる所に、越後界の乗鞍岳は、当与石坂村の西にあれども、極めて高き山にもあらざれば、前の高峯に支障せられて、右命ぜられし見通しの山々少も見えず、然るに此塩島新田村分の乗鞍岳は、峯も極めて高く、塩島村より凡そ七里程登りても、絶頂までは岩壁嵯峨として至ること協はず、乃ち乗鞍の前輪後輪と雲へる、峯の央居木に似たる平より之お望むに、見通し分明なれば、〈此乗鞍岳は越後界の乗鞍より、遥に南にありて、西裏も猶信濃の地にて、山々並び続けり、〉此旨公聴に達したりしに、塩島千国の西に当れる乗鞍より、見分すべき旨命ぜらるヽに依り、此山に登りて右の山々お見通し、後ち委く言上せしに、見分の詳細なること遠く他に優れたりとて、建部彦次郎より賞美ありしなり、〈其節の事、猶委く家譜に見えたり、〉今按ずるに、元禄年中の国絵図は、他国に隣れる所々の山川に至るまで、両国より附け合せて、国界お定むる故に、其方角お郡中にて見れば、違へる所なきにしもあらず、況や村里の号は、名と穀高とお専らとして、其所在は方角おも正すに及ばざるおや、然る所以は、一国の絵図に於ては、其大概お載するが故に、土地の広狭に於て、悉く校へ正さず、故に比乗鞍岳も、官庫の図に任せて命ぜられしものにて、越後界の乗鞍とは異なりたれども、塩島の山とあれば、一向違へるにもあらず、故に此山に登り分見せしとなり、絵図に見えたるは、福島村の西に載たれども、畢竟越後界の乗鞍なるべし、子細は絵図端書中に其意見ゆ、然れば今此見通の山とは異なれども、同与の中近辺に同名あれば、時として紛れ誤るまじきにもあらず、官庫の大絵図は、今復た改むべきにもあらざれば、此断りお委く記し置くものなり、