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翁草
百六十一
信州駒が岳 富士禅定の人の雲るは、絶頂より近国の諸山お見渡すに、箱根櫓沢、信州胞衣(えなか)岳、御岳、飛騨、越後、上州辺高岳有といへども、其山と指て雲べきは見えず、隻眼下に一面の土堤お築きたる如し、但乾と覚しき方に雪お帯て、兀々たる山参差たり、誠に層巒ならん、信州浅間にやあらんと問に、左には非ず、浅間は是よりは見えず、あれは駒が岳なりと答ふ、是お見るに、士峯より目八分に見る程なれば、至て高岳ならめと兼て思ひしに、寛政元年東行する折柄、其麓お過るまヽに倩(つら〳〵)眺に、実も峻嶺也、されど富士に対すべき物かはと不審かしかりしが、能く考れば、都て信濃は土地至て高し、上州、越後、甲斐、美濃より入るに、何方よりも登らずと雲事なし、国中の川水皆四方へ落る、此お以其高さお知れり、故に雪深からねど、寒気の烈しき北越に過たり、駒が岳の事お、福島の土人に問へば、此山には拝すべき神仙もましまさねば、参詣すべき事もなし、適旱魃する年、雩(あまこひ)に登山する也、五年程前に大に旱して、近郷より登山す、我も其時登れり、福島と宮の腰の間に川有、大原川と雲、此川の上に大原村と雲有、是其麓也、此より二里あり、此所に権現宮有、宮官の寺も有、此時人数六十人、各壮年にて達者なるお撰て登る、麓より三里許は、樹木叢茂として更に登るべき道なし、大木共雪に押へられて、枝撓り伏して、網お張たる如き上お匍匐て登る、其下お覗き見れば、地形は一丈或は二丈許下に在り、各梢おつたひて宙お行也、其梢の下には雉の如くにて、尾は永からぬ鳥、幾等も群居る、土人は此鳥の名お不知、按るに是雷の鳥成べし、加州白山に此鳥有て、雷お食ふ故に、此鳥お図して家に掲置き、処の難お避ると雲習はして、今専ら世上に此事おなす、是に付て色々奇説有ども略之、都て甲州上州辺の山内には、此鳥甚多しと也、扠三里登れば、夫より上は樹木なく、砊々たる岩間お攀上る事二里にして、既に絶頂近き程に、駒石とて高さ十八間、長十間余の大石有、形馬の蹲たる如く、北お向て弐里、夫お過て頂上へ登る、巓に御池と称して、小き水お湛し処有、其水深さ僅に二寸許有、六十人之者手に〳〵是お汲干さんとするに、一時お経ても更に尽ず、兎角して下山に及ぶ、未明より上りて昼八頃也、初登山の時、是迄下りて宿すべきと思ふ所に、栞なんど目印およくして置し場所へ立帰り臥す、元より寒気堪がたければ、木の枝お折来て火お焚、夜と倶にあたり、糧は焼餅、又は煎物、飯お持者は、能焼て肌に付たり、火お通さヾる物は凍て食ひがたし、猶水なき場所にて渇飲すれば、其所お究め印お立置こと也、斯て夜明て下山し、午時過て麓に著く、六十人の内、十九歳に成る血気の若者、人に勝れて元気健(すこやか)成しが、麓に於て気分不勝、途中にて死、又四十歳計の男一人、山に酔て正体なかりしが、是は四五日悩みて快気せりと雲、按るに、此若男は血気に任せて自ら根気お失ひし也、都て斯る高山に登るに、必強気なるは悪し、専ら元気お丹田によく治て、平気にして少も急がず登るがよし、是峻嶺に登るの一法也、山に酔ことは間あること也、それは元気薄きによれり、兎に角に一気臍下に凝然たれば、山に酔こともなく、又霊異あるも、よく正敷観る事也、御岳山権現〈土人は御岳と雲〉は世に知る霊山也、麓に社家有、寺あり、六月十二日十三日祭礼也、近郷の男女群参す、此日五穀成就の祈禱、大般若転読勤行也、御山禅定は百日精進せずしては上り得ず、其間は行場に入て修行おなす、昼夜光明真言お誦し、水垢離おとる也、其料金三両弐分、百日が間の行用とす、如斯なれば、軽賤の者は登り得ず、生涯大切の旨願ならねば籠らずと也、頂山に至る事一里半、大日如来お安置せりとかや、 社家は、御祭日神前にて祓祝辞お申、此両日市おなして、賑ひ火しと也、 信州にては、此両山聳て目に立也、御岳は北に在、駒が岳は南に在、又東南に恵那が岳とて高山有り、土俗雲、此山の神は、伊勢大神宮御母神なれば、二十一年毎の御遷宮には、必御柱木は此山より出る也といふ、冊尊お祭奉るにや、然らば恵那が岳は胞衣(えなが)岳成べし、