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下野国誌

庚申山 安蘇郡足尾郷赤岩と雲所にあり、二子山の峯つヾきなり、日光山より西の方にあたりて七里許あり、黒髪山の南の方にあたれり、さて足尾より凡十町余り行て、二十町登り、たふげよりまた十町余り下る、此所より銀山まで、一里のあひだ沢つたひに行、それより登ること三里余りにして、庚申山の胎内竇(くヾり)と雲岩窟に至る、此所に休息して登るなり、奥の院と唱ふる所まで、其所より一里許、さて胎内竇といへる石室は、凡広さ十坪許もあるべし、夫より二十間許登りて、左右に大石たてり、高さ五六丈もあるべし、其形彼二王の如し、是天工にして絶妙なり、また登ること一町余りにして、台石と呼ぶものあり、広さ五坪許もあらん、自然にして砥の如し、起て四方お眺れば、此山中の風景坐(い)ながらにして尽すなり、是より下ること二間余りは、甚しき険阻にして、鬼の髯礱(ひげすり)と呼る所なり、また下ること二町余りにして、自然の石橋あり、其長さ二間余り、広さ凡五六尺許あり、此橋より少し登りて、自然の石門たてり、是お一の門と雲なり、東向にて其大さ二十間余りなり、中函二間許、左右の小竇各々九尺許、門の形は琴柱に似たり、是より二町余り行て、左の幽谷より数十丈、峙たる大石あり、塔の如くにしてまた橧に似たり、叢樹頂に生ひ茂りたり、是また奇なり、また下ること二町余りにして、裏見の滝あり、水流の幅五六尺もありて、高きことは計難し、すべて日光山の裏見の滝に似て、其奇は彼所に勝れり、是より五町余り登りて、右の方に白き巌五つたてり、文字石と名つく、其高きこと計難し、此石に庚申の文字ありと雲伝へたれど、慥ならず、また登り下り、一町余りにして石門あり、是お二の門と雲、大さ三間許あり、中央の通り九尺許あり、其岩窟お凡一町余りくヾり行て、灯籠の形なる石あり、凡高さ四五丈許とも覚ゆ、また登ること数百歩にして、鐘に似たる石はるかに見ゆ、凡高さ二三丈もあらんか、蘿生兎糸生ひて、真に庚鐘の如し、また下ること数百歩にして石橋あり、其長さ凡十二三間許なり、丘より岑に跨りて、其下お見おろせば、谷深くして雲お生じ、幾千仞とも計りしられず、礄の形は恰も虹に似て雲の梯とも思ふばかりのけはひなり、さてまた種々の石ありて、或は鶴亀、或は釜、或は舟、或は屏風などヽ、其形の似たるに依て名つけたる物、挙てかぞふるにいとまあらず、いづれも自然の大石にして、天造奇構の妙なり、また岩窟も数所ありて、上世穴居の止ともおぼゆるばかりなり、さて奥の院と唱ふるは、嶟々たる三窟ありて、屹として高きこと三丈嶙として近づくことあたはず、其形中はまろく、左なるはうろこのかたち、右なるはまどかなり、いづれも規矩お以て作るが如く、口おの〳〵八九尺許づヽあり、其前に猿の形に似たる活石三つ並べり、思ひなしにや、視ることなかれ、聴くことなかれ、言ふことなかれの針とも見ゆ、彼れ是れお思ひあはせて庚申山とは名つけたるなるべし、さて其右の方に登ること数百歩にして、東のつまと雲所あり、眺望いふばかりなし、夫より下ること四町余りにして大石あり、平石と唱ふ、長さ三十間許、高さ一丈余り、建屏の如し、此石のきれめの間より、下ること八町許にして、はじめの胎内竇の東の方に出るなり、是この神境は、人県お避ること遠く、ことに絶険の地なれば、昔よりしる人も希なりしお、元禄年中より、やヽ登山するもの彼是ありといへども、容易に及ぶべき所にはあらざりしお、都賀郡三谷村の佐野一信といふ者、薬品お求めん為に、この山の岩窟お探り、夫よりこの佳境お開かんと、いさヽか道お造りて、人おみちびくことヽはなりぬ、そのゆえお文政三年の夏の頃、上総人三橋臣彦と雲者にはかりて、山中の荒増おしるし、庚申山記と雲ものお書たり、ついでに雲、視ざる聴ざる言ざるのことは、伝教大師、天台の不見不聴不言お以て、三諦に表して、三猿の形お作り、三猿堂お建るといへり、そは妄見妄聴妄言せざらんことお欲してなるべし、また猿(さる)と不(ざる)と訓の通ひ、猿と申との字義通ふ、故に庚申の日お以て是お祀るなり、よみ人しらず 見ざる人聞かざる人にかたらばやえもいはざるの山のけしきお