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北越雪譜
二篇四
苗場山(なへばやま) 苗場山は、越後第一の高山なり〈魚沼郡にあり〉登り二里といふ、絶頂に天然の苗田あり、依て昔より山の名に呼なり、峻岳の巓に苗田ある事甚奇なり、余其奇跡お尋んとおもふ事年ありしに、文化八年七月偶おもひたちて、友人四人、〈嘯斎、襭斎、扇舎、物九斎〉従僕等に食類其外用意の物おもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三つ俣といふ駅に宿り、次日暁お侵して此山の神職にいたり、おの〳〵祓おなし、案内者お傭ふ、案内は白衣に幣お捧げて先にすヽむ、清津川お渉り、やがて麓にいたれり、巉道お踏、嶮路に登るに、掬樹森列して日お遮り、山篠生ひ茂りて径お塞ぐ、枯たる老樹折れて、路に横りたるお踰るは、臥竜お踏がごとし、一条の渓河お渉り、猶登る事半里許、右に折れてすヽみ、左りに曲りてのぼる、奇木怪石、千態万状、筆お以ていひがたし、已に半途にいたれば、鳥の声おもきかず、殆東西お弁じがたく、道なきがごとし、案内者はよくしりてさきへすヽみ、山篠おおしわけ、幣おさヽげてみちお示す、藤蔓笠にまとひ、叢竹身お隠し、石高くして径狭く、一歩も平坦のみちおふまず、やう〳〵午すぐる頃、山の半にいたり、僅の平地お得て、用意したる臥座お木蔭にしきて食おなし、暫く憩てまたのぼり〳〵て、神楽岡といふ所にいたれり、これより他木さらになく、俗に唐松といふもの、風にたけおのばさヾるが、梢は雪霜にや枯されけん、低き森おなして、こヽかしこにあり、またのぼり少しくだりて、御花甫といふ所、山桜盛にひらき、百合、桔梗、石竹の花など、そのさま人の植やしなひしに似たり、名おしらざる異草もあまたあり、案内者に問へば薬草なりといへり、またのぼりゆき〳〵て、桟齦(かけはしのやう)なる道にあたり、岩にとりつき、竹の根お力草とし、一歩に一声お発しつヽ、気お張り汗おながし、千辛万苦しのぼりつくして、馬の背といふ所にいたる、左右は千丈の谷なり、ふむ所僅に二三尺、一脚おあやまつ時は身お粉砕になすべし、おの〳〵忙怕あゆみて、竟に絶頂にいたりつきぬ、 偖同行十二人、まづ草に坐して憩ふ、時已に下晡なり、はじめ案内者のいひしは、登り二里の険道なれば、一口に往来することあたはず、絶頂に小屋在、こヽにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり、今その小屋おみれば、木の枝、山さヽ枯草など取りあつめ、ふぢかつらにし匍匐入るばかりに作りたるは、野非人のおるべきさまなり、こヽお今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな〳〵笑ふ、僕どもは枯枝おひろひ、石おあつめて仮に竃(かまど)おなし、もたせたる食物お調ぜんとし、あるひは水おたづねて茶お享れば、上戸は酒の煉おいそぐもおかし、さて眺望は、越後はさら也、浅間の烟おはじめ、信濃の連山みな眼下に波涛す、千隈川は白き糸おひき、佐渡は青き盆石おおく、能登の洲崎は蛾眉おなし、越前の遠山は青黛おのこせり、こヽに眼お拭て、扶桑第一の富士お視いだせり、そのさま雪の一握りお置が如し、人々手お拍、奇なりと呼び、妙なりと称讃す、千勝万景、応接するに徨あらず、雲脚下に起るかとみれば、忽晴て日光眼お射る、身は天外に在が如し、是絶頂は周一里といふ、莽々たる平蕪、高低の所お不見、山の名によぶ苗場といふ所こヽかしこにあり、そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の植たるやうに、苗に似たる草生ひたり、苗代お半とりのこしたるやうなる所もあり、これお奇なりとおもふに、此田の中に蛙蛗螽もありて、常の田にかはる事なし、又いかなる日でりにも田水枯ずとぞ、二里の巓に此奇跡お観ること、甚不思議の霊山なり、案内者いはく、御花甫より、〈まへにいひたる所〉別に径ありて、竜岩窟といふ所あり、窟の内に一条の清水ながれ、そのほとりに古銭多く、鰐口二つ掛りありて、神お祀る、むかしより如斯といひつたふ、このみち今は草木に塞れてもとめがたしといへり、絶頂にも石に刻して苗場大権現とあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり、俗伝なるべし、こヽかしこ見めぐるうち、日すでにくれて小屋に入り、内には挑灯おさげてあかりとし、外には火お焼てふたヽび食おとヽのへ、ものくひて酒お酌、六日の月昊昊として空もちかきやうにて、桂の枝もおるべきこヽちしつ、人々詩お賦し歌およみ、俳句の吟興もありて、やヽ時おうつしたるに、寒気次第に烈しく、用意の綿入にもしのぎかねて、終夜焼火にあたりて夢もむすばず、しのヽめのそらまちわびしに、はれわたりたれば、いざや御来迎お拝たまへと案内がいふにまかせ、拝所(おがむところ)にいたり、日の昇お拝し、したくとヽのへて山おくだれり、〈別に紀行あり、こヽには其略おいふのみ、〉 百樹曰、余越遊したる時、牧之老人に此山の地勢お委しくきヽ、真景の図おも視たるに、巓の平坦なる、苗場の奇異、竜岩窟の古跡など、水にも自在の山なれば、おそらくは上古、人ありて此山おひらき、絶頂お平坦になし、馬の背の天険おたのみて、こヽに住居し耕作おもしたるが、亡びてのち、其霊魂こヽにとヾまりて、苗場の奇異おもなすにやと思へり、国史お捜究せば、其徴する端おも得べくや、博達の説お聞ん、