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塩尻
三十五
我帝祖瓊々杵尊降臨の所は、日本紀に日向国襲の高千穂峯と雲々、今の霧島山也、延喜神名式に、日向国諸県郡霧島神社雲々、今は薩摩国鹿児島領にして、城下より二里余、東北海辺の高山也、毎に登山の者多し、神代の故実とて登山の人々、稲穂お持せていわく、霧来らば是にて打払べしといふ、此山黒霧一陣づヽ吹越、其色大風の如く、一時眠々として路お別たず、やヽもすれば、人彼霧にまかれて、他方へ尸お落す事度々有とかや、故に霧来らば、手々に稲穂にて払事かまびすし、暫の間に天開晴す、〈日向風土記に此事あり、昔より如此と見へたり、〉山頂お御鉢といふ、池のごとく窪なる所〈富士山のごとし〉数町四方有、其中に神代の御鉾とて、九尺計なる金鉾一柄建り、〈賢按、此もの石に非ず、金に非ず、希代のものヽよし、領〉〈主義久の頃後に金にて壱本外に添立給ふ、〉いとかうがうしく見ゆ、登山の輩是お拝し奉る、〈山上には社も何もなし〉間々又火大に燃出て、くろ煙天お覆ひ、磐石お数里に飛事あり、是お神火と称し、諸州ことに恐れ拝すとかや、山岳海岸に臨んで南おうく、霧島の明神は山下に鎮座まします、祠方三間計、鳥居物ふり、樹木しげり、猶神さびたる霊地なりとぞ、〈肥州長崎の人、太田東作談也、〉 賢按、当時延岡領に高千穂山あり、霧島とは方角違なり、不審、総体地理不案内の者の物語は、まま如此事あり、能々改見度事也、追而委舗可尋、