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西遊雑記

霧島山は九州第一の深山にて、幽谷嶮阻限りおしる人まれにて、山奥肥後の米良山につヾき、南大隅に跨り、数十里に連りし山也、高山とは称しがたき山にて、布地広大也、当山躑躅の木数多にして、花の頃は谷々峯々、猩々緋にて包しごとく、山一面に赤く、朝日夕日には其光りにえいじて、詠め何とたとへん方なし、春の頃お盛りとし、それより残花となりても、此山のつヽじは夏まで咲谷あり、上方筋にてきり島と称せる躑躅の木も、此山の名お付しものにて、色赤しといへども、土地のよしあしによりてや、当山の躑躅の色は、誠に緋のごとく、類すべきものにあらず、東霧島村と西きしりま村とは、曲り道とは言ながらも、行程凡六里余、西北は都て霧島山にて、谷々麓おめぐりて、小村多く、各山の称名かはるといへども、総名はきりしまといふ、海内世の人の思ふとは案外にて、中華にもさして劣らぬ程なる広大なる事にて、かヽる山も有事也、扠此山奥嶮阻の峯、神代に建給ひし天の逆鉾と称せる数丈の鉾、巌石の上に逆しまにたて、神代の文字にて銘おほりてあるといふ事、昔しより雲事にて、誰壱人其所に行て見しといふものなし、京都橘石見介といふ人、〈伊勢国久居人〉故ありて此地に下り、逆鉾の建有る峯に行見しといふ、九州の紀行あり、予是お一見せしに、人家お離るヽ事十余里計、谷に下り峯お越へて行に、硫黄の燃る谷もあり、煙り援かしこに立上りて、道お埋み行迷ふ所もあり、刃の上お伝ふやう成岩の上お腹這して行所もありて、十死の地に入がごとし、案内として伴ひし壱人は、今一里計こなたよりおそれおどろきて気絶す、漸是お介抱して、其人は其地に待せ、石見介一人嶮しき所お、木の根かつらに取付て、逆鉾の建し峯近く至りしに、夫よりは登るべき道なしいかにも巌石の上に、数丈の鉾と覚しき物あり、銘などの事は更に見え分ず、鉄なるや銅なるやそれとわからず、其所より是非なく元の道へ立帰り、彼ともなひし人と打連、命から〳〵麓の里へ下りしと記しあり、予も一見のこころざしにて、国お出し時より望には有しかども、霧島町に止宿し、里正の家に行て鉾の一事お聞しに、むかしより鉾のある事お人々雲伝ふ事ながら、十里も人家おはなれ、深山幽谷の道もなき所お行事故に、誰一人も道筋お知るものもなく、生て帰らんとおもふ人の行べき所にあらざれば、此五六里の村里において、我は行て逆鉾お見しといふ者は、聞伝へずとの事なり、予按るに、此鉾何の為に建置しといふことはりもなく、天よりふりし国とこたちの尊の建置給ひしといふ計の事也、神代にもせよ、数丈の鉾お、人もかよはね岩上の上に建べき道もなく、関羽が青竜刀の鉾よりも大成鉾お、何人か用ひ、何人歟是お作らん、察る処似像石なるべし、造物者の作におひては、岩にても似像のものヽある事也、夫に説お加へて、好事家の奇談と成て、世に伝へしものならんか、土人秘して語る事あり、他国よりやヽもすれば霧島山の鉾の事お尋ね問ひ来る人多し、何と答へんやうもなし、是によつて遠からぬ国の守、銅お以て数丈の鉾お、鍛冶数人集めて作らしめ、夫に銘お彫りて、此山奥の人もかよひがたき嶮山の峯に建給ひしもの也、是お一覧有にも、あやふき嶮山の峯に道も絶し難所お、七里計分入ざれば一覧なりがたし、穴かしこ、新に作り給ひしなどヽいふ事お、我より聞しと人に語り給ふなと、口止めして物語りき、此一事は追々人も知る事と、土人の口どめながら援に記せる物也、