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古事記伝
十五
高千穂之久士布流多気(たかちほのくじふるたけ)、〈久士布流は、書紀に、槵触と書き、又槵日ともあるに依らば、久志夫流とあるべきに、仮字の清濁の違へるは、これ上代〉〈の音便にて、士お濁り布お清々しと聞えて、上なる肥の国の亦の名も、豊久士比泥別(とよくじひねわけ)とあるに同じ、此の事、伝五の十四葉に雲り、考へ合すべし、多気の多も、古へは清てぞ唱へけむ、〉此の山の名、書紀に見えたるは、上に引るが如し、又一書には日向襲之(ひむかのその)高千穂添(そほり)山の峯ともあり、〈襲(そ)は姓氏録の序にも、天孫降襲とあり、此の襲の事は、上熊曾の国の下(ところ)、伝五に委しくいへり、〉さて今皇孫の命の、此の山にしも降著坐りしことは、書紀に猿田彦神に、天鈿女(あめのうずめ)復問曰、女何処到耶、皇孫何処到耶、対曰、天神之子、則当到筑紫日向高千穂の槵触(くじふる)之峯(たけ)雲々、果如先期、皇孫則到筑紫日向高千穂槵触之峯とあれば、元より然るべき所由ありしことなるべし、〈当到は、いたりますべしと訓ても、到り給へと数ふるには非ず、到り坐さむことお知れる故に告るなり、故下に果と雲り、〉万葉二十〈五十丁〉に、比左加多能(ひさかたの)、安麻能刀比良伎(あまのとひらき)、多加知保乃(たかちほの)、多気爾阿毛理之(たけにあもりし)雲々、さて此山は、日向国風土記に、臼杵郡内知鋪郷(ちほの)、天津彦々火瓊々杵尊、離天磐座、排天八重雲、稜威之道別々々而、天降於日向之高千穂二上之峯時、天暗冥、昼夜不別、人物失道、物色難別、於茲有土蜘蛛、名曰大鉗小鉗、二人奏言皇孫尊、以尊御手抜稲千穂為糅、投散四方、得開晴、于時如大鉗等所奏、搓千穂稲為糅投散、即天開晴、日月照光、因曰高千穂二上峯、後人改号知鋪と見へたり、〈鉗の字、万葉抄に引たるには鏗とあり、いづれよけむ、後人攺とは、文字お攺めたるおいふ、〉 名の意高千穂は、此の風土記に雲るが如くなるべきか、〈或説に、皇孫の命斎庭(ゆには)の穂お御(しろしめ)す、故に、其の都に供粢盛田ある故の名なり、今も其田の蹟ありて、里人不蒔稲と称すとなりと雲るは、山の名には由なく聞ゆ、〉久士布流(くじふる)は、霊異(くし)ぶるにて、書紀に槵日(くしび)ともあると同じ、〈槵は皆借字なり〉布流と備とは同じ言の活用けるなり、多気(たけ)は万葉に高(たけ)とも書る意にて、〈竹も高く立伸る物なる故の名なり、物の立てる高さお、長と雲も此の意なり、されば立たる物ならで、凡て物の長さお、多気と雲は誤なり、〉高き山お雲り、さて此山の事、上にも雲る如く、其とおぼしき二処に有りて、いとまざらはし、其一つは今も高千穂岳と雲て、かの風土記に見えたる、臼杵郡なる是なり、和名抄にも、日向国臼杵郡智保郷あり、続後紀十三に、日向国無位高智保皇神、奏授従五位下、〈この日向国三字、印本には誤りて皇神の下にあり、今は古本に依て引り、〉三代実録一に、授日向国従五位上高智保神従四位上と見ゆ、〈又和名抄に、肥後国阿蘇郡にも知保郷あるは、日向の智保とつゞきたる地にて、一つかはた別なるか知らず、〉かくて此の山は、日向の国の北の極にて、豊後の国の堺に近し、〈肥後の宇土八代などより、日向の延岡に通ふ道の北の方にあり、〉其のあたりお今も高千穂の荘と雲とぞ、〈これ智保の郷なるべし、今の世延岡なる主の領地、にて、其処に近し、延岡は旧名県と雲し処なり〉今一つは諸県の郡にありて、霧島山と雲、神名式に、日向国諸県郡霧島神社、続後紀六に、日向国諸県郡霧島岑神預官社、三代実録一に、授日向国従五位上霧島神従四位下とあり、此の山は日向国の南の極にて、大隅の国の堺なり〈神代紀に二上とあるごとく〉東西と分れて、峯二つあり、〈山の下に東霧島西霧島と雲村もあり〉西なる峯は大隅の国に属り、続紀に、延暦七年七月己酉、太宰府言、三月四日、戌時当大隅国贈於郡曾乃峯上、火炎大熾、響如雷動、及亥時、火光稍止、唯見黒烟、然後雨沙峯下五六里、沙石委積可二尺、其色黒焉とあるは、此の山のことなるべし、書紀に襲之(その)高千穂峯ともあればなり、〈そも〳〵此山の事、委く聞に、霧山とも霧島山とも雲て、東なる峯は日向国諸県郡、西なるは大隅国囎唹(その)郡なり、東なる峯殊に高くして、鉾の峯といふ、頂に神代の逆矛とてたてり、詣つる者これお拝む、語り伝へて雲く伊邪那岐伊邪那美の命、天の浮橋の上より霧の海お見下し賜ふに、島の如く見ゆる物あるお、天の沼矛お以てかきさぐり、其処に天降賜ひて、其矛お逆様に下し給へるなり、霧島山と雲も此由なりと雲へるは、此邇邇芸の命の御古事お、彼の二柱の神の御事に混へて、伝へひがめたるなるべし、かくて西なる峯はやゝ卑し、頂よりやヽ下、のぼる道の傍なる谷には、常に火燃あがる、さるゆえに火気布峯と雲、日向の言に、常お気布と雲故なりとぞ、又此火時によりていみじく熾に燃上りて、黒烟天におほひ、石砂遠く飛ひ散ることあり、日向大隅薩摩の国人ども、神火と雲て畏み拝むとぞ、霧島明神の社は麓にあり、大きなる社なりとぞ、凡そ此山の内、夏のころきりしま、さつきの花盛りは、目もあやなりとぞ、其外あやしき樹どもくさ〴〵あり、山半より上には、樹は一つもなくて、たヾこまかなる焼石のみなりとぞ、又山の内に、処々大きなる池多く有て、大なる蛇すめりとぞ、さて此山、つねに登詣る人多きお、暴に霧の起りて、大風吹出て地とヾろき、おどろ〳〵しき音して、闇の夜の如く、暗がりて路も見え分かぬばかりになることありて、ともすれば此の霧におぼヽれ、風に吹放たれて亡なる者もあり、然るに神代の故実と雲て、いはゆる先達なる者、人に教へて、手ごとに稲穂お持せ行て、もし此霧おこりぬれば、其お以て払ひつヽゆけば、しばしがほどに天明りて事故なしとぞ、さて峯に立てるかの御矛は、長さ八九尺許りありて、鉄にや石にやわきまへがたし、鉾の方に横手ありて、十の字の形の如し、又同じさまなる矛、今一つ立てるは、近き世に、島津義久朝臣の、新に造りて建添られたるなりとも、又は鹿児島の商人池田の某と雲し者、此山の神お深く仰ぎ奉りけるが、真鍮お以て造りて建たるなりとも雲は、いづれか実ならむ、〉かヽれば臼杵の郡なる高千穂山も、諸県の郡なる霧島山も、共に古書にも見え、現に凡ならざる処なるお、〈然るに此の二つの山お、混へて一つの如く雲る説は、いとおほろかにして、委くも考へざるひがことなり、〉皇孫の命の天降坐し御跡は何れならむ、〈さだめがたし、其故は、まづ書紀の高千穂と、槵日二上とおば異山として、高千穂は臼杵の郡なるお其とし槵日二上は、霧島山とするときは、二処共に其の御跡なりと雲べけれど、風土記に、臼杵郡なるお、高千穂の二上の峯とあれば、二上も臼杵の郡なる方と聞えたるお、又書紀には、襲之高千穂峯とある襲は、大隅なる地の名なれば、此れは高千穂と雲も、霧島山の方とこそ聞ゆれ、然るに又臼杵の郡なる高千穂山おも、今時二上山と雲て、まことに此れも中央に二峯ありて、然雲べき山なりと国人語れり、又二神明神と雲ふもあり、槵日村槵触が岳など雲名もありとぞ、然る名どもは、後の〉〈世につけたるも知りがたければ、証としがたけれど、風土記にしも二上之峯とあり、凡て風土記は正しく、其国にして古き伝説お記せる物なるに、此臼杵郡なるおのみ記して、霧島の方おば記さぬお思へば、霧島は非るが如くなれども、古の風土記どもは、たヾ書紀の釈と、仙覚か万葉抄などとに往々引るのみこそ遺りたれ、全きは伝はらざれば、其全書には霧島山の事も記したりけむお、彼書どもには、其おば引漏せるも知りがたし、霧島山の方も正しく峯二つ有て二上なり、凡て古に二上山と雲るは、皆峯二ある山なり、又風土記には、稲穂の古事も臼杵郡なる方に記せれど、是はた今の現に霧島山にのこれり、又神代の地名、多く大隅薩摩にあり、彼此お以て思へば、霧島山も、必ず神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく高千穂と雲てまがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに何れお其と一方には決めがたくなむ、〉いとまぎらはし、