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古史伝
三十一神代
貞観七年の大焼有し後、延喜以前までは、煙立しと見えて、伊勢家集に、人しれず思するがの富士のねは我がごとやかく〈一にかくやとあり〉絶ず燃らむ、はては身の富士の山とも成ぬるか燃るなげきの煙たえねば、など詠み、古今集の序にも、富士の煙によそへて人おこひ、〈玄道雲、同集に、人知れず思お常にするがなる富士の山こそわがみなりけれ、又君と雲ばみまれ見ずまれ富士のねのめづらしげなく燃るわが恋、又富士のねのならぬ思にもえばもえ神だにけたぬむなし烟お、能宣集に、草深みまだきつけたる蚊遣火と見ゆるは不尽の烟なりけり、重之集に、焼人も有じと思ふ富士の山雪の中より烟こそたて、拾遺集に、千早ぶる神も思の有ばこそ年経てふじの山も燃らめ、大和物語に左大臣、ふじのねの絶ぬ思も有物おくゆるはつらき心なりけり、など数知ず多く、竹取物語の末条にも、其烟未雲の中へ立登とぞ雲伝たると、記せるおも思べし、さて或人は此物語なるかくや媛も、此山お主宰す、比売神の御事より思寄けむともいへり、〉と書つれど、下文に、今は富士の山も煙立ずなりと有お思に、是頃既に煙絶たり、然るに日本紀略に、朱雀院天皇承平七年の所に、十一月某日、甲斐国言、駿河国富士山神火埋水海と雲事有ば、是より復煙立けり、〈玄道雲、道雄説に、此時に埋しは下吉田村の上方、富士の山腹に胎内と称大穴有て、其辺より押出たる焼石火く、下吉田と舟津村の間は、一面の焼石なる所有り、舟津より川口まで一里の舟渡有所なるが、此より東に此海口有しお埋たる故に、水の落方なし、地中より伏流して、相模国馬入川の水源山中海より出る桂川に涌出と雲、又山中海、明日見の海も、元川口と一なりしお埋みて、かく三と成し者ならむと、委く説り、外記日記に、一条天皇長保元年三月七日、駿河国言上せる解文お載て、日者不字御山焼、由何祟者、即卜申雲、若恠所有兵革疾疫事歟者とあり、此治安元年より二十三年許前の事なり、又紀略に、後一条天皇長元六年二月十日丙午、軒廊御卜、駿河国言上、去年十二月十六日富士山火く起自峯〈一に嶺とあり〉至山脚、又扶桑略紀永保三年二月二十八日癸卯条に、有富士山燃恠焉とも見ゆ、考合すべし、〉其は更科日記に、其山の状いと世に見えぬ状なり、状異なる山の姿の紺青(こむじやう)おぬりたる様なるに、雪の消る世もなく積りたれば、色濃絹に白きあこめ衣(き)たらむやうに見えて、山の嶺の少平(たひらぎ)たるより、煙は立ち上る、夕暮は火の燃立も見ゆと雲るにて知べし、〈更科日記は、菅原孝標朝臣女の記にて、治安元年父朝臣に従て、上総国より京に上られし時の道の記なり、〉然るお十六夜日記に、富士の山お見れば煙も立ず、昔父の朝臣に誘れて、いかに鳴海の浦なればなど詠し頃、遠江の国までは見しかば、富士の煙の末も朝夕たしかに見えし物お、いつの年よりか絶しと問へば、さだかに答る人だになし、誰が方に靡果てか富士の根の煙の末の見えず成らむ、古今の序の詞まで思出れて、朽果し名柄(ながら)の橋お造ばや富士の烟も立ずなりなば、と雲り、然れば此頃復既に絶たるなり、〈此日記は、藤原為家卿の後妻なりし阿仏尼と雲る人の訴事有て、建治三年十月の頃に、鎌倉へ下るヽ時のお、弘安三年に記れたる物なり、又父朝臣に雲々とは、続古今集に思事侍比、父平度繁朝臣の遠江国に罷けるに、心ならず伴て、鳴海の浦お過とて詠侍ける、さても我いかになるみの浦なれば思方には遠ざかるらむ、転寝記にも此歌見えて、後の親と頼る人、遠江より上たるかへさに、誘れて下し由見えて、父とは平度繁朝臣にて、此尼の後親なりと或人説りき、 玄道雲、転寝記に、富士の山は惟こヽもとにぞ見ゆる、雪甚白くて心細し、風に靡く烟の末も、ゆめの前に哀なれど、うへ無き物はと思けつ心のたけぞ、物悲かりけると有は、本文に能符れど、十六夜日記に、為守主より立別れ、富士の烟お見ても、尚心ぼそさのいかにそひけむ、とある返し、かりそめに立別れても子お思ふおもひお富士の烟とぞ見し、と有は、いかにと雲に、京にて知ず詠に詠るに、知られしにて、共に訛(おそ)歌なればなり、又海道記は、誰人の作にや知ねど、大かた同比の物なるべきお、富士の高根に烟お望ば、臘雪宿して雲独むすび雲々とも、問きつる富士の煙は空に消て雲になごりの面陰ぞ立つ、と雲歌も見ゆ、さて源頼朝卿が、富士野狩の古図にも、烟の立状お画けりと、或人も説ひ、平家物語、曾我物語にも、富士の烟の事お記し、新古今集にも、西行が、風に靡く富士の烟の空に消えて行方も知らぬ我心かな、頼朝卿の、道すがら富士の烟もわかざりき晴るまもなき空のけしきに、と有お見ても、其比また燃し事知るめり、詞林採要抄に、俗伝に雲、昔は此山もゆる事甚くして、火焰天に上り、黒烟日お隠し、磐石お降し、熱湯おながし、隣国鳴動して草木枯渇、東作西収、民の愁有けるが、清和天皇御宇貞観年中より、此煙絶て立ずと雲り、其昔の焼石、此山の四方の麓に、数十里に及で充満り、于今在之雲、時知ぬ富士の煙も秋の夜の月の為にや立ずなりけむ、と記せるは、甚疎考なり、〉是より後の物にては、宗良親王の李花集に、浮島が原お通て車返と雲し所より、甲斐国に入て信濃へと心ざし侍しに、然ながら富士の麓お行廻侍り〈一に二字なし〉しかば、山の姿、いづ方よりも同し様に見えて、誠に類なし、北になし南になして今日いくか富士の麓お廻きぬらむ、〈新葉集には、行廻らむに作る、〉信濃国に行つきぬれば、送の者帰り侍し次に、駿河なりし人の許へ申遣侍し、富士のねの煙お見ても君とへよ浅間の岳はいかヾ燃ると、と有り、〈こは新葉集おも校へ合て、今の要有事のみお抄き出せるなり、 玄道雲、李花集に、又駿河国貞長が許に興良親王在由聞て、暫立寄侍しに、富士の煙もやどのあつけに立ならぶ心ちして、実にめづらしげなきやうなれど、都の人はいかに見はやしなましと、先思出らるれば、山の姿などえにかきて為家卿の許へ遣とて、みせばやな語ば更に言のはも及ぬふじの高ね成けり、とも見ゆ、さて此は大かた興国より正平初の比になむ有べきお、宗久が観応即正平五六年の比に、東国に遊し都のつとと雲物に、富士の山お見渡せば、甚深く霞こめて、時知ぬ山とも更に見えずとて、富士のねの烟の末は絶にしおふりける雪や消えせざるらむ、と有お見れば、燃もし、或は絶も〉〈したるにや、又元弘元年七月七日大地震に、此山数百丈崩し事、太平記南朝記等に載り、〉此御歌に拠ば、興国の頃又煙の立たりし事しるし、是より後の事は博も考ず、かくて近世の大じき荒びは、宝永四年と雲年の神火にぞ有ける、〈此事種々の書に記せる中に、寺島良安が書に、宝永四年十一月二十三日夜、地震二度、鳴動不止、巳刻富士山焼炎高煙聳、焦土降数十里、南至岡部、艮栗橋、翌日稍止、又自二十五六両日、大焼、岩石砕飛、土砂焦散、灰埋原及吉原之地、高五六尺、至江戸之地高五六寸、而所焼出為大空穴、其傍贅生小山、呼称宝永山と雲るは、簡にして精き説なり、(中略)玄道雲、不尽獄志に、承平長元永保の火の事おも雲、元弘紀元七月岳崩数百丈後三百七十余年有宝永之災と記せり、〉